額に汗しても報われない、この「形容しがたい違和感」の正体
朝、アラームが鳴る。満員電車に揺られ、定時を過ぎても終わらない業務に追われ、夜、疲れ果てて帰宅する。鏡に映るのは、昨日の自分よりも少しだけ摩耗し、精彩を欠いた顔だ。私たちは真面目に生きている。ルールを守り、納税の義務を果たし、組織の歯車としてその役割を完遂しようと努めている。
それなのに、どうしてこの社会は少しも良くなる気配がないのだろうか。
物価は上がり、手取りは減り、将来の不安だけが膨張していく。「政治が悪い」「世代間格差だ」という言葉は、もはや聞き飽きたノイズに過ぎない。私たちが感じているのは、単なる不景気や政治不信を超えた、もっと根源的な「機能不全」への絶望ではないか。まるで、正しく動くはずの何かが、根本から決定的に噛み合っていないような、あの奇妙な手応えのなさだ。
私たちは今、一度立ち止まり、この社会という「巨大な装置」の正体を直視しなければならない。
想像してみてほしい:言語不明のまま放置された「聖域の機械」
あなたの目の前に、部屋を埋め尽くすほどの巨大な精密機械が鎮座しているとしよう。それは、この国の平和、安全、そして経済的繁栄をすべて担保するために設計された、人類の知己を集めたような高性能なマニュアル・マシンだ。
しかし、その機械には一つの致命的な、そしてバカげた問題がある。――付属している分厚い説明書が、すべて「英語」で書かれているのだ。
それだけではない。この機械には「勝手な分解・改造を禁ずる」という厳格な警告シールが至る所に貼られており、鍵がかけられている。機械が異音を立て、排気口から黒い煙を吐き出しても、私たちはその内部構造を知る術を持たない。説明書の一行目さえ読めない私たちができるのは、ただ表面の計器が異常を示しているのを眺め、おろおろとボタンを闇雲に叩くことだけだ。
やがて、自分たちではどうしようもなくなると、私たちは「外部の専門家」を呼ぶ。海を越えてやってきた彼らは、私たちの読めない言語で何かつぶやき、機械の深部に手を入れて何かを弄っていく。しばらくすると煙は止まるが、なぜ止まったのか、彼らが何を交換したのかは依然として不明なままだ。
「直してくれてありがとう」と、私たちは多額の保守点検費用を差し出す。そして次の日、また別の場所から火花が出たとしても、私たちは同じように右往左往し、再び外注業者に連絡を取るための受話器を握る。自らの命を預けているはずの機械が、どのように駆動しているのかも知らないまま、私たちはその機械が「高性能であること」だけを妄想し、無力な祈りを捧げ続けている。
外注化された思考と、失われた「自律」という名の設計図
このグロテスクな寓話は、まさに現代日本の統治構造そのものである。
「マニュアルが読めない」という真実
私たちが直面している「政治不信」や「統治機能不全」の正体は、民主主義というシステムの故障ではない。そのシステムを動かすための「OS(基本ソフト)」、すなわち憲法や安全保障、経済政策の根幹における決定権が、事実上の「外注状態」にあるという不条理だ。
戦後、日本という機械は驚異的な復興を遂げた。しかし、その駆動原理が記された説明書は、常に海の向こう側の言語で書かれていた。日米地位協定をはじめとする「見えないルール」によって、この国の最重要事項は国民の目の届かない場所、密室での調整によって決定される。私たちは、自分たちが主権者であると教え込まれながら、実際には「機械の表面を磨くこと」以外を許されない管理人。それが、戦後日本の正体である。
なぜこの不条理は温存されるのか
構造を問い直そうとする声は、常に「現実的ではない」という一言で封じられる。なぜか。それは、この「説明書を読まない状態」が、既得権益層にとって極めて都合が良いからだ。
自分たちで原因を究明し、自分たちの言葉でルールを書き換える(=自律する)ことは、同時にすべての責任を自分たちで引き受けることを意味する。それよりも、「外圧」という名の外注業者を言い訳にし、不可抗力を装いながら現状維持を続ける方が、統治する側にとっては遥かに楽なのだ。この構造が生み出すのは、自分たちの社会を自分たちの手で制御できているという実感の徹底的な剥奪である。
私たちは、なぜ不況が続くのか、なぜ少子化が止まらないのかを分析するふりをするが、肝心の「機械の仕様変更」には決して手を付けない。いや、付けられない。その無力感が、日本社会を覆う重苦しい閉塞感の正体なのである。
「故障」という名の言い訳を捨て、主権の不在を直視せよ
私たちはこれまで、この国を「故障した機械」だと思い込もうとしてきた。「直せばいつか元のように動く。誰か優秀なエンジニアが導いてくれる」という幻想にすがってきた。
しかし、現実はもっと残酷だ。この機械は、故障しているのではない。最初から、私たちの言葉を拒絶するように設計され、そのまま運用され続けているのだ。
「主権がある」とは、自分たちの社会という機械の説明書を、自分たちの言語で書き綴り、たとえ火花を散らそうとも自分の手で工具を握ることだ。ところが私たちは今、英語の説明書を翻訳しようともせず、ただ機械が勝手に動き出す奇跡を待つだけの観客に成り下がっていないだろうか。
私たちが本当に克服すべきは、政治家の無能でも、経済の停滞でもない。この国が「自分たちの手中にはない」という不都合な真実から目を逸らし、主権がない状態を「一時的な故障」と勘違いし続けている、その精神的な依存構造そのものだ。
説明書を奪い返し、自分たちの言葉で書き換える覚悟。それがない限り、私たちはどれほど勤勉に働こうとも、永遠に「他人の設計図」の上で摩耗し続けるだけの運命から逃れることはできない。
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