虚飾の円安、あるいは国家という名の延命患者が「自分の血」を売って「水」を買う喜劇

まじめに働くほどに削られていく、私たちの「生活の輪郭」

朝、目が覚めた瞬間に感じる微かな倦怠感。それは単なる寝不足ではない。私たちが日々懸命に働き、生産し、納税しているにもかかわらず、手元の解像度が年々下がっていくような感覚のことだ。スーパーの棚に並ぶ商品のラベル。かつてより一回り小さくなった容器、あるいは密かに書き換えられた値段。

「賃上げ」や「株価史上最高値」という景気の良い言葉がメディアを躍るたび、私たちは自身の財布の軽さとの乖離に戸惑う。国家の数字は上向いているらしい。だが、私たちの生活実感は、まるで浸水する船の上で必死に水を掻き出しているような、終わりのない徒労感に支配されている。なぜ、この国はこれほどまでに「豊かさ」から遠ざかってしまったのか。なぜ、努力の果実が指の間からこぼれ落ちていくのか。その正体は、私たちが信じ込まされている「経済成長」という名の不都合な真実にある。

隔離病棟の不条理:輸血パックを売らなければ生きられない患者

想像してみてほしい。あなたは、ある古い病院のベッドに横たわっている。体はひどく痩せ細り、自力で立ち上がる気力もない。あなたの枕元には、二本のチューブが繋がっている。

一本のチューブは、あなたの腕から「赤い鮮血」を勢いよく吸い出している。その血はパックに詰められ、窓の向こう側にいる裕福な外国人たちに、二束三文の安値で売り払われている。「今なら格安ですよ」と病院の経営者は笑顔で宣伝し、あなたの血を飛ぶように売っていく。血が抜かれるたび、あなたの視界は白く霞み、指先は氷のように冷たくなっていく。

そして、もう一本のチューブ。そこからは、黄色い栄養剤(点滴)が流し込まれている。だが、この栄養剤は非常に高価だ。あなたが売った血の代金では、ほんのわずかな量しか買えない。経営者は、あなたが売った血で得た金を使って、さらに高い金を払い、外部からこの「延命のための水」を買い戻しているのだ。

「見てごらんなさい。点滴の注入量は増えている。あなたは回復に向かっているんだ」

経営者は、点滴の目盛りを指してそう豪語する。確かに、数値の上では「投入される栄養」は増えているのかもしれない。しかし、注入される量よりも、あなたの体から奪われる血の量の方が圧倒的に多い。あなたは、自分の命を切り売りして、その場しのぎの水分を買わされているに過ぎない。この病室の湿った空気、錆びついたベッドの軋み、そして止まらない貧血の眩暈。これが、今のあなたのすべてだ。

右肩上がりのグラフという名の「緩やかな死」

この不気味な病棟の風景こそが、現在の日本経済が直面している「円安政策と輸入依存」の正体である。

「自分の血」という名の技術と労働力の安売り

比喩における「輸血パック」とは、日本が世界に誇ってきた技術力、高品質な製品、そして何より国民の「労働時間」そのものだ。円安というドーピングによって、日本の製品は外貨建てで見れば極端に安くなった。海外の投資家や消費者は、この「安売りセール」に群がり、日本の富を吸い上げていく。

輸出企業の決算書には、円換算された巨額の利益が並ぶ。しかし、その利益の源泉は、製品の本質的な価値向上ではない。通貨の価値を自ら貶め、国民の労働を「買い叩きやすい状態」にしたことで得られた、いわば身を削った代償だ。

「高価な点滴」という輸入コストの逆襲

一方で、私たちは「栄養剤」なしでは生きていけない。エネルギー、食料、原材料。これらを海外に依存している日本にとって、円安は猛毒となる。輸血(輸出)で得た、目減りした円を使って、高騰した点滴(輸入資源)を買い戻す。この構造がある限り、いくら輸出が増えたところで、国内に富は蓄積されない。むしろ、国全体の購買力は猛烈な勢いで失われていく。

私たちは「1ドル150円」という数字をただのレートとして見ているが、その実態は、日本という国家が世界から「3割引きの価値しかない」と宣告されたに等しい。かつて100の力で買えた未来が、今は70の力でしか買えない。この差分こそが、私たちの閉塞感の正体である。

なぜ、このシステムは止められないのか

この「輸血モデル」によって莫大な利益を得る層が確実に存在するからだ。大規模な輸出企業、そしてその株主たち。彼らにとって、国民が貧血で倒れようとも、帳簿上の数字が膨らみ、配当が増えればそれで「成功」なのだ。政治は、この局所的な成功を「景気回復」と呼び替え、構造的な欠陥から目を逸らし続けている。

真の成長とは、付加価値を高め、少ない労力でより多くの富を得ることにある。しかし、現状は真逆だ。より多くの血を流し、より多くの時間を差し出さなければ、最低限の生活を維持するための資源すら買えない。これは経済政策ではなく、国家的な「資産の投げ売り」である。

結論:私たちは「見せかけの点滴」を拒絶できるか

円安による「見せかけの好景気」の実態は、未来への投資ではなく、単なる国力の流出である。輸血パックを売って点滴を買うような生活を続けていれば、いつか必ずその体は限界を迎える。血管が細り、心臓が止まるその時まで、経営者は「点滴の量は増えている」と言い張り続けるだろう。

私たちが直面しているのは、単なる物価高の問題ではない。自分たちの労働と技術が、正当に評価されない「搾取の構造」に組み込まれているという構造的な危機だ。

今、必要なのは「点滴の量を増やすこと」ではない。自らの体から血を抜くことを止め、自立した体力を取り戻すことだ。安売りに頼る経済からの脱却、エネルギーの自給、そして労働価値の再定義。

「自分の血を売ってまで買うほど、その点滴には価値があるのか?」

この問いを突きつけることからしか、真の回復は始まらない。私たちは、国家が提示する見せかけの数値に踊らされるのをやめ、自分たちの命(国富)がどこへ流れ出しているのかを、その冷え切った指先で確認しなければならない。

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