「パートナー」という名の不可視化された奴隷:外国人技能実習制度が隠蔽する現代の「清掃階級」

私たちの「豊かさ」が踏みつけている、見えない誰かの指先

朝、コンビニで手に取るおにぎり。深夜まで稼働する工場のライン。あるいは、美しく整えられたホテルのリネン。そこには、私たちの快適な生活を支える「誰か」の労働が確実に存在する。しかし、私たちはその「誰か」がどのような顔をし、どのような痛みを抱え、どこで眠りについているのかを、驚くほど知らない。

日々、私たちは「物価高だ」「給料が上がらない」と嘆き、閉塞感に苛まれている。だが、その閉塞感の下層には、さらに深い、光の届かない淵がある。そこでは、私たちが享受する「安さ」と「便利さ」という果実を維持するために、ある種の人々が徹底的に構造の犠牲となっている。

なぜ日本は、これほどまでに豊かでありながら、これほどまでに残酷なことが可能なのか。私たちが無意識に目を逸らしている、その残酷な構造の正体を暴きたい。

華やかなパーティ会場と、裏口から入りゴミだけを片付ける人々

想像してみてほしい。そこは、都心の一等地に建つ、選び抜かれた者だけが集う「会員制高級クラブ」だ。

金色のシャンデリアが揺れ、シャンパングラスの触れ合う繊細な音が響く。フロアでは、スーツやドレスに身を包んだ「正会員」たちが、輝かしい未来やビジネスの成功について談笑している。漂うのは、高級な葉巻と香水の香り。それこそが、この場所の「日常」だ。

しかし、その足元を、影のような人々が這い回っている。

彼らは決して正面玄関からは入れない。裏口の、錆びついた鉄扉から人目を避けるように入室する。彼らに与えられた役割はただ一つ。会員たちが散らかした食べ残しを片付け、割れたグラスを拾い、絨毯にこぼれた赤ワインの汚れを膝をついて拭き取ることだ。

彼らがどんなに完璧にフロアを磨き上げても、会員たちが彼らに挨拶をすることはない。視線すら合わせない。会員たちにとって、彼らは「椅子」や「テーブル」と同じ、風景の一部に過ぎないからだ。

ある時、支配人が彼ら向かって微笑んでこう言った。「君たちは、わがクラブの欠かせない『パートナー』だ。共にこの空間を作り上げる、光栄な仲間なんだよ」

だが、その言葉に温かみはない。その「パートナー」は、正会員と同じテーブルに座り、同じ料理を口にすることは永遠に許されない。彼らが少しでも不満を漏らせば、即座に裏口から放り出され、翌日には新しい「代わり」が補充される。彼らはこの場所の空気を吸う権利すら、本当は持っていないのだ。

「国際貢献」という仮面に隠された、労働力の搾取構造

この「会員制クラブ」の寓話は、決して遠い異国の昔話ではない。これこそが、現代日本が「外国人技能実習制度」という美名のもとに維持している、冷酷な現実そのものである。

「パートナー」という欺瞞が生む、現代の不可視性

実収制度の本質は、比喩の中の支配人が言った「パートナー」という言葉に集約されている。国や企業は、彼らを「技能を学ぶ実習生」であり、日本の経済を支える大切な「パートナー」であると喧伝する。しかし、その内実は、日本人労働者が嫌悪する「3K(きつい・汚い・危険)」な現場に、安い賃金で彼らを固定し、身動きを取れなくするシステムだ。

彼らは転職の自由を奪われ、住居すら管理者に握られている。これは雇用関係ではなく、一種の「所有」に近い。私たちは彼らを「労働力」としては歓迎するが、「人間」としては見ていない。彼らが怪我をし、心を病み、あるいは逃亡したとき、社会は彼らを救うべき市民としてではなく、壊れた部品やルール違反の脱走者として扱う。

構造的な病巣:なぜこのシステムは温存されるのか

なぜ、これほど人権侵害が指摘されながら、この構造は変わらないのか。それは、このシステムが「誰にとっても都合が良い」からだ。

第一に、安価な労働力に依存しなければ倒壊してしまう産業構造がある。農業、建設、食品加工。私たちが「100円の野菜」や「安価な弁当」を求める限り、そのコストを誰かに転嫁しなければならない。その転嫁先が、声を上げられない外国人実習生なのだ。

第二に、日本社会が抱える「同質性への執着」だ。私たちは、自分たちのコミュニティに異物が混ざることを極端に嫌う。だから、「労働力だけは欲しいが、彼らが隣人として定住し、権利を主張し、社会保障を受けることは許さない」という身勝手な論理を成立させるために、この「期間限定の使い捨て」という歪な制度が重宝される。

労働力だけが欲しくて、人間としての権利は見ないふりをする国

結局のところ、私たちは彼らの「手」だけを欲し、その手につながっている「心」や「人生」を切り捨てている。

ある技能実習生が、故郷に残した家族の写真を眺めながら、劣悪な寄宿舎で震える夜。その一方で、私たちは彼らが収穫した野菜を使い、SNSに映える料理を投稿する。このあまりにも対照的な光景こそが、現代日本の正体である。

「外国人技能実習制度」を巡る諸問題は、単なる法制度の不備ではない。それは、私たちが「人間」を、コストや記号としてしか見ることができなくなった、感性の枯渇の象徴だ。

核心を言おう。私たちは、労働力だけを欲しがり、その持ち主である人間としての権利には、徹底して見て見ぬふりを続けている。

彼らを「パートナー」と呼ぶのなら、同じテーブルに座らせるべきだ。そうでなければ、その言葉はペテンであり、私たちはただの残酷な収奪者に過ぎない。裏口から入りゴミを片付ける人々の沈黙の上に築かれた「豊かさ」は、いつか必ず、その土台から崩れ去るだろう。剥取される側が耐えきれなくなる時か、あるいは、私たちが人間としての誇りを完全に失う時のどちらかに。

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