満たされない胃袋と、強制される二択の絶望
朝、目覚めてから夜に眠りにつくまでの間、私たちは常に「何かを変えたい」という薄っすらとした、しかし切実な飢餓感に苛まれている。給与は上がらず、物価だけが不遜な態度で上昇を続け、将来への不安は霧のように視界を遮る。それなのに、私たちの手に握らされている「変革のチケット」は、あまりにも無力で、あまりにも擦り切れている。
「なぜ、私たちはこれほどまでに報われないのか?」
その問いに対して、社会は冷淡に答える。「君たちが選んだ結果ではないか」と。選挙という儀式を経て、民意という名のハンコが押されるたびに、現状維持という名の重石が私たちの肩に積み上がっていく。だが、ここで立ち止まって考えてみてほしい。私たちは本当に、自分たちが望む未来を「選んで」きたのだろうか。それとも、巧妙に設計された、逃げ場のないシステムの中で「選ばされて」きたのだろうか。
いま、日本という国で起きているのは、健全な政治的競争ではない。それは、空腹の客に対して「毒を食うか、さもなくば皿を食え」と迫るような、狂ったレストランの風景そのものである。
「メニューのないレストラン」へようこそ
想像してみてほしい。あなたはひどく腹を空かせ、一軒のレストランの暖簾をくぐる。店内には重苦しい空気が漂い、テーブルの上にはメニューが存在しない。給仕があなたの前に現れ、表情のない顔でこう告げる。
「本日の提供は、カレー、もしくは激辛カレーのみとなっております」
あなたは戸惑う。本当は和食が食べたかった。あるいは、胃に優しいスープを求めていたのかもしれない。そもそもカレーの気分ですらない。しかし、店側はあなたの要望に耳を貸そうとはしない。「ここにあるのはこれだけだ。どちらかを選べ。選ばないなら、この店から出て行け。ただし、他に行ける店は一軒もないがな」
仕方なく、あなたは消去法で「まだマシに見える」方のカレーを指さす。すると店主は、さも誇らしげに周囲へ宣言するのだ。「お客様が自らの意思でこの料理を注文されました! 素晴らしい選択です。これこそがお客様の望みだったのです!」と。
提供された皿には、冷え切った米と、具のほとんど入っていないルーが載っている。あなたは一口食べて顔をしかめるが、店主はさらに追い打ちをかける。「次はもっとひどい激辛の方にするかい? それとも、いまのカレーに文句を言いながら食べ続けるかい?」
このレストランにおいて、客の意思は「何を食べたいか」ではなく、「どちらに耐えられるか」というサバイバルな二択にまで矮小化されている。ここでは、食べたいものがないという当たり前の権利さえ、システムへの反逆として処理されてしまうのだ。
仕組まれた「民主主義」という名の思考停止
選挙という「茶番劇」の構造分析
この「メニューのないレストラン」という寓話は、現代日本の政治状況そのものを映し出す鏡である。
私たちが選挙のたびに突きつけられるのは、肥大化し硬直化した「巨大な現状維持派」と、それに対抗するにはあまりにも脆弱で、時には既存勢力以上に過激で非現実的な主張を繰り返す「有弱な多派」という、極端な二択だ。
有権者は、決して満足して投票しているわけではない。むしろ、「あの党よりはマシ」「あいつらにやらせるよりはマシ」という、消去法による「マシな地獄」の選択を強いられている。しかし、一度一票が投じられれば、その消去法の選択は「熱烈な支持」として統計処理され、権力側にとっては都合のいい免罪符へと書き換えられてしまう。
なぜ「メニュー」は増えないのか
なぜ、私たちは和食やイタリアン、あるいは質の高い定食を注文することができないのか。それは、このレストランの経営構造が「新しいメニューを出さないこと」で安定するように設計されているからだ。
- 参入障壁の高さ(供託金という城壁): 新しく厨房に立とうとする料理人がいても、この店には「数百万、数千万の保証金を払わなければコンロの火さえ点けさせない」という理不尽なルールがある。
- 既存顧客の囲い込み: 店側は、カレーを好む一部の常連客(既得権益層や組織票)の機嫌さえ取っていれば、店を存続させられることを知っている。
- 無力感の再生産: 「どうせ何を選んでもカレーしか出てこない」と客に思わせることで、客を店から遠ざけ(低投票率)、残った一部の熱狂的な客だけで店のルールを決める。
このシステムにおいて、得をしているのは誰か。それは、質の低いサービスを提供し続けてもクビにならない店主と、その店主からおこぼれを貰う一部の特別な客だけだ。大多数の「腹を空かせた一般客」は、選択という行為を通じて、自らの首を絞めるシステムに加担させられているのである。
「選んだだろ」という暴力に抗うために
私たちは、この不条理なレストランの光景をいつまで受け入れ続けるつもりだろうか。
社会が提供する選択肢が、もはや人々の多様な願いや切実な課題を反映しなくなっているとき、そこで行われる「選択」に正統性は存在しない。「選んだだろ」という言葉は、政治や権力が責任を逃れるための、最も卑怯で残酷な呪文である。
私たちは、提示された二つのカレーのどちらが美味いかを議論するのを、一度やめるべきだ。椅子を跳ね除け、厨房の裏側に潜む構造を指差し、こう叫ぶ必要がある。
「そもそも、なぜカレーしかないのか? メニューを見せろ。なければ、今すぐ新しい料理人を探し、この店のルールを根底から書き換えろ」と。
「選んだだろ」と言われるが、そもそも選択肢が機能していない。
この事実に気づくことこそが、私たちがこの「不毛なレストラン」から脱出するための、最初の、そして最も重要な一歩となる。本当の民主主義とは、与えられた選択肢の中から選ぶことではない。自分たちの望む選択肢を、自分たちの手で作り出していく過程そのものを指すのである。もはや、冷え切ったカレーを「マシだ」と思い込みながら咀嚼する時間は終わった。私たちは、自分たちのテーブルに、自分たちが本当に誇れる食事を並べる権利を行使しなければならない。
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