誰もが「何か」に急かされているという、正体不明の焦燥感
朝、目が覚めた瞬間から、私たちは見えないチェッカーフラッグを追い求めている。スマートフォンの通知に追われ、分刻みのスケジュールをこなし、常に「他者より一歩先へ」と駆り立てられる。生産性を高めよ、自己研鑽を怠るな、市場価値を最大化せよ。現代社会を生きる私たちが肌で感じているこのヒリヒリとした焦燥感は、単なる努力の証ではない。それは、システム全体が異常な加速を始めた結果として生じる、生存本能の悲鳴である。
なぜ、これほどまでに便利になったはずの世の中で、私たちは一向に楽になれないのか。なぜ、富は一部に集中し、大多数の人間は疲弊し続けるのか。その答えは、私たちが乗り込んでいる「社会」というマシンの設計図そのものに隠されている。私たちは今、整備不良どころか、意図的に致命的な欠陥を抱えた怪物に運命を委ねているのだ。
時速300キロで疾走する、ブレーキのないF1カーの悪夢
想像してみてほしい。あなたは今、世界で最も華やかなサーキットの観客席にいる。鼓膜を震わせる爆音とともに、最新鋭のフォーミュラカー(F1)が目の前を通り過ぎていく。その美しさとスピードに、群衆は熱狂している。
しかし、あなたはふと、そのマシンの異様な構造に気づき、背筋が凍るような感覚を覚える。そのコックピットには、アクセルペダルしか存在しないのだ。ハンドルは細く、コースを修正するのがやっと。そして何より、どこを探してもブレーキペダルが見当たらない。
エンジニアたちは胸を張って言い放つ。「ブレーキは重荷だ。摩擦を生み、速度を殺し、エネルギーを無駄にする。我々の目的はただ一つ、一秒でも早くゴールに到達することだ。止まるための機能など、効率の敵でしかない」
レースが始まれば、マシンは凄まじい加速を見せる。直線では圧倒的な強さを誇り、記録を次々と塗り替えていく。だが、目前には急カーブが迫っている。ドライバーは顔を青ざめ、必死にマシンをコントロールしようとするが、減速する術を持たない。周囲を走る他のマシンも同様だ。互いにぶつかり合い、火花を散らしながら、壁に向かって一直線に突き進んでいく。
そして、そのマシンの真の恐ろしさは、事故が起きたときにドライバーだけが犠牲になるのではないという点にある。制御を失った鉄の塊は、防護壁を突き破り、歓声を上げていた観客席へと容赦なく突っ込んでいく。悲鳴と怒号。それでも、本部に控えるオーナーたちは、瓦礫の中で血を流す人々には目もくれず、ストップウォッチを眺めながら「次のラップタイム」を計算している。
「速さ」という信仰が、私たちの生存権を切り捨てた
利益というガソリン、規制という重荷
この「ブレーキのないF1カー」こそが、現代のグローバル資本主義そのものである。ここでいう「速さ」とは企業の利益であり、株価であり、GDPの成長率だ。そして排除された「ブレーキ」とは、労働法、環境規制、倫理観、そしてセーフティネットといった、経済の暴走を食い止めるためのあらゆる社会通念を指す。
かつて、資本主義にはブレーキが存在した。国家による介入や、地域共同体の絆、あるいは「強欲は恥である」という道徳的な歯止めだ。しかし、グローバリズムという名のサーキットでは、これらのブレーキは「市場の流動性を阻害する古い規制」として、次々と解体されていった。コストカットという名の軽量化が進み、企業は一円でも安い労働力、一円でも低い法人税を求めて世界中を疾走する。
観客席という名の「国民」が支払う代償
私たちが直視すべきなのは、この異常なレースの代償を常に払わされているのは、「観客」である国民だという事実だ。2008年のリーマンショックを思い出すがいい。金融市場という名のF1カーが、欲にまみれた加速の果てに自爆したとき、救済されたのはそのハンドルを握っていた銀行であり、エンジニアである投資家たちだった。
一方で、制御を失ったマシンに跳ね飛ばされたのは、家を失った市民であり、職を追われた労働者だった。事故の後始末(公的資金の注入)には私たちが納めた税金が充てられ、その一方で、マシンは再び「ブレーキなし」のままコースへと戻されていった。
誰がこの構造から利益を得ているのかは明白だ。マシンのオーナー(資本家)と、その速度を維持することで配当を得る特権階級だ。彼らにとって、クラッシュは織り込み済みのリスクに過ぎない。なぜなら、その痛みを感じるのは彼ら自身ではなく、マシンの外側にいる弱者たちだからだ。
効率化の果てにあるのは、制御不能な社会崩壊である
私たちは今、大きな分岐点に立っている。「効率化こそが正義である」という神話を信じ続け、このまま加速し続けるのか。それとも、自らの手でブレーキを再構築し、マシンの速度を人間が制御できる範囲まで落とすのか。
AIの台頭やデジタルトランスフォーメーションは、本来、私たちの生活を豊かにするためのツールであるはずだ。しかし、これが現代の「ブレーキなきシステム」に組み込まれるとき、それはさらなる加速装置として機能し、人間をシステムから疎外する凶器へと変貌する。24時間稼働を強いるアルゴリズム、一秒の遅れも許さない配送システム、これらはすべて、人間から休む権利を奪うアクセルペダルだ。
効率化の果てにあるのは、洗練された未来ではない。制御不能な社会崩壊である。
私たちは、もはや「速さ」を競う必要はない。真に称賛されるべきは、最も速く走るマシンではなく、いかなる急カーブでも安全に止まり、乗員と観客の命を守り抜くことのできる、強靭なブレーキを持った社会であるはずだ。
「止まれない」ことは、進化ではない。それは単なる、自滅へのカウントダウンに過ぎないのだ。今こそ、私たちはこの狂ったレースに異議を唱え、加速を止める勇気を持つべきである。
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