なぜ自国の地獄を愛せるのか――「隣の芝生に除草剤を撒く」という愚行の構造

荒廃した庭で高らかに響く「嘲笑」という名の鎮痛剤

朝、目が醒めて私たちが目にするのは、手入れの行き届かない自らの庭だ。雑草は膝の高さまで伸び、少子高齢化という名の害虫が地力を奪い、空洞化した経済という土壌からは、もはや新しい芽が出る気配すらない。給与は上がらず、物価だけが空を舞い、将来への不安という湿気が家全体を蝕んでいる。

本来であれば、私たちは直ちに鋤(すき)を取り、泥にまみれて自らの庭を耕し直すべきだ。しかし、その作業はあまりにも過酷で、終わりが見えない。そこで、私たちは窓の外を見る。目に入るのは、隣の家の庭だ。

「あそこの庭も、実は病んでいるらしい」「あそこの主人は品性下劣だ」

私たちは、自らの庭を放置したまま、隣の家の塀越しに毒の言葉を投げかけ、時には隠れて除草剤を撒く。隣の芝が枯れるのを見て、私たちは束の間の万能感に浸る。自分の庭が荒れ果てているという残酷な事実から目を逸らすために、私たちは「他者の不幸」という劇薬を欲しているのだ。なぜ私たちは、自らを救う努力よりも、他者を貶める快楽を優先してしまうのだろうか。

泥濘の村:鏡を見ることを禁じられた住人たち

想像してみてほしい。そこは、一年中どんよりとした灰色の空に覆われた、ある閉鎖的な村だ。村を流れる川は汚れ、家々の屋根は朽ち果て、住人たちは飢えと寒さに震えている。本来なら村長を突き上げ、治水工事を行い、新しい種を植えるべき窮状にある。

しかし、この村の広場には巨大な拡声器が設置され、毎日、隣村の悪評が流されている。「隣の村は呪われている」「彼らは我々の富を盗もうとしている」「彼らの収穫が減ることは、我々の勝利である」

住人たちは、自分たちの腹が鳴っていることも、子供たちが教育を受けられずにいることも忘れ、拡声器の周りに集まって隣村への罵詈雑言に興じている。誰かが「自分の家の屋根を直すべきではないか?」と正論を吐こうものなら、周囲から「非国民」「隣村のスパイ」と石を投げられる。

夜、自分の家の冷たい床に横たわりながら、住人たちは思う。「あいつらよりはマシだ。あいつらも苦しんでいるのだから」。その暗い喜びだけが、彼らに明日を生きる活力を与える。しかし、翌朝になれば、自分の庭の雑草はさらに深く根を張り、屋根の穴はさらに広がっている。彼らは決して、自分たちの姿を映す「鏡」を見ようとはしない。鏡を見ることは、絶望を直視することであり、自らの無策を認めることだからだ。

視線を逸らさせる「外敵」という政治的装置

国内の腐敗を隠蔽する「排外主義」のメカニズム

この比喩的な物語は、現代の日本、そして国際社会が抱える歪んだ「外交・国際関係」の縮図である。名称を付けるなら、それは「隣の芝生に除草剤を撒く」という行為に他ならない。

私たちが隣国に対して抱く嫌悪感や摩擦――いわゆる「嫌韓」「嫌中」といった現象の多くは、純粋な歴史認識や安全保障上の懸念から生じているのではない。その深層心理にあるのは、自国の衰退、経済的停滞、そして解決の糸口が見えない社会構造への「やり場のない怒り」だ。

政治権力にとって、国民の不満が内側(自分たち)に向くことは最大の脅威である。そのため、彼らは「外敵」という共通の標的を用意する。国民が隣国の失政を笑い、マナーの悪さを叩き、没落を願っている間、国内の増税や社会保障の崩壊、汚職といった構造的な病巣からは意識が逸らされる。

衰退を隠すためのナショナリズム

これこそが、外に敵を作ることで内部の不満を逸らす、歴史上繰り返されてきた「古典的手法」だ。自社会の不条理(ブラック労働、格差、政治の無策)に対して声を上げるにはエネルギーがいる。しかし、インターネットの海で隣国のニュースを拾い上げ、匿名で除草剤を撒く(誹謗中傷する)のは容易であり、瞬間的な報酬系を脳に与えてくれる。

この構造で最も得をしているのは、庭の主ではない。庭が荒れていることを隠し続け、隣家への憎悪を煽ることで地位を維持している「村長」たちだ。彼らにとって、国民が隣国の悪口に夢中になっている状態は、自らの無策を免罪されるボーナスタイムなのである。

鏡を直視し、自らの庭に種を蒔け

私たちは自覚しなければならない。隣の芝生にどれだけ除草剤を撒いたところで、自分の庭に美しい花が咲くことは決してないのだ。

他国の不幸を消費し、相対的な優越感に浸ることは、精神的な鎮痛剤にはなっても、社会を再生させる肥料にはならない。むしろ、その憎悪という毒は、回り回って自分たちの土壌をも汚染していく。多様性を拒絶し、不寛容を美徳とし、常に仮想敵を探し続ける社会に、創造性や希望が芽生える余地などないからだ。

「なぜ私たちは報われないのか?」

その答えは、海の向こうにあるのではない。私たちが向き合うことを拒んできた、この足元の荒野にある。今、私たちに必要なのは、隣人の欠点を数えることではなく、自分たちの庭にある雑草を一本ずつ抜く勇気だ。構造的な不条理を正し、壊れたシステムを修復し、再びこの地に豊かな実りをもたらすために知恵を絞ることだ。

他者を呪うエネルギーを、自らを変革する力へと転換せよ。真のプライドとは、他者との比較で見出すものではなく、自らの庭をどれだけ誠実に耕したかによってのみ証明されるものである。隣の芝生を気にするのをやめた時、初めて私たちは、自分たちの手で未来を勝ち取るスタートラインに立つことができるのだ。

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