呼吸を忘れた群衆が見上げる「空席」という名の神話
毎朝、私たちは決まった時間に家を出る。あるいは、深夜まで続いた労働の果てに、疲れ果てた体を引きずってプラットフォームに立つ。私たちは皆、一様に「乗車券」を手にしているはずだ。それは現代社会において、民主主義、自由主義、公平な競争という名で配られた、誰もが等しく持っているとされる権利の証である。
しかし、駅のホームで電車を待つ群衆の顔に、希望の光が宿っていることは稀だ。そこにあるのは、いかにして自分だけがこの鉄の塊の中に空間を確保するかという、剥き出しの生存本能だけである。私たちは、「頑張れば報われる」「誰にでもチャンスはある」という甘美な言葉を信じて、この閉塞感に満ちた社会のレールに乗り込んだ。だが、現実はどうか。日々の生活で増していくのは、出口のない徒労感と、どれだけ努力しても一歩も前へ進めていないという感覚ではないだろうか。
なぜ、私たちはこれほどまでに必死に生きているのに、安らぎを得られないのか。その答えは、私たちが乗らされている列車の構造そのものに隠されている。
出口のない圧力鍋:座席指定のない絶望の回廊
想像してみてほしい。あなたは今、果てしなく続く満員電車の車内にいる。
車内の空気は、人々の吐息と湿った体温で混濁し、肺に酸素が届くのを拒んでいる。窓の外は漆黒の闇か、あるいはあまりに眩しすぎる広告のネオンが流れている。足元は誰かの靴に踏まれ、背後からは見知らぬ誰かの肘が容赦なく食い込む。腕を動かす自由すら、ここには存在しない。
この電車には、一つの不可解なルールがある。「全員が同じ有効な乗車券を持っているが、座席は指定されていない」というルールだ。
車両の隅には、革張りの豪華なソファが並ぶ一角がある。そこは空調が効き、優雅な音楽が流れ、一部の人々がゆったりと足を伸ばして座っている。彼らは汗をかくことも、誰かに押しつぶされることもない。彼らは一度その席を確保してしまえば、あとは目的地まで快適な時間を過ごすだけだ。
一方、通路に沈んでいるあなたはどうだろうか。あなたは、隣の人間を押し退けなければ、自分の立ち位置すら確保できない。少しでも隙間を見せれば、後ろから来た者に場所を奪われ、文字通り「浮き上がって」しまう。ここでは「隣人を愛せ」という教えは、自らの窒息を意味する。
そして、この地獄のような光景を、天井のスピーカーから響く車掌の冷徹な声が煽り立てる。「お客様同士、譲り合ってお詰めください。まだ入り口付近に余裕がございます。もっと、もっと奥へ……」車掌の手元にあるモニターには、悲鳴を上げる乗客たちの姿が映し出されている。しかし、彼は決して「予備の車両を連結する」とは言わない。ただ「詰めろ」と命じ、限界まで膨れ上がった車内の圧力を、「効率的な輸送」と呼んで称えるのだ。
自由競争という名の椅子取りゲームが隠蔽するもの
「自由」という切符と「格差」という鉄格子
この比喩的な満員電車は、まさに私たちが生きる「自由競争・格差社会」そのものである。
私たちは義務教育から社会に出るまで、一貫して「乗車券(機会)」は平等に与えられていると教え込まれる。試験を受け、就職活動をし、市場というプラットフォームに立つ権利は皆にある。しかし、その「機会の平等」の背後には、決定的なリソースの不足が計算ずくで隠されている。
座席の数は、乗客の数に対して圧倒的に少ない。これはバグではなく、「仕様」なのだ。全員が座れる社会を目指せば、資源の再分配が必要になり、特権階級の快適さが損なわれる。だからあえて、椅子を奪い合わせる。人々が互いに押し合い、いがみ合っている限り、怒りの矛先は「椅子の少なさ」ではなく「隣の乗客の図々しさ」に向かうからだ。
構造的な病巣と政府の沈黙
ここでいう「車掌」とは、誰を指すか。それは、市場の均衡を説きながら増税と自己責任を強いる政府であり、効率化を金科玉条とするプラットフォーマーたちである。
彼らが「もっと詰めろ」とアナウンスするのは、それが最も低コストでシステムを回す方法だからだ。社会保障を削り、労働規制を緩和し、非正規という名の「つり革すら持てない乗客」を増やす。それで車内が破裂しそうになっても、「あなたが努力して座席を勝ち取らなかったのが悪い」と、扉の外から冷ややかに言い放つ。
この構造で得をしているのは、最初に座席を占有し、相続や資本の力でその権利を固定化した者たちと、その阿鼻叫喚を交通費(税・手数料)として徴収し続けるシステム運営者だけである。彼らにとって、満員電車は「高効率なビジネスモデル」に過ぎないのだ。
機会の平等という嘘を捨て、現実の床を踏みしめる
「機会の平等さえあれば、社会は公平である」という言説は、勝者が敗者を沈黙させるための呪文である。
私たちは、走り出した電車の窓から、取り残された人々を見捨てるよう教育されてきた。そして自分自身もまた、いつか振り落とされる恐怖に怯えながら、隣の席を狙って神経をすり減らしている。しかし、構造を見つめ直せば、真実が浮かび上がる。
機会の平等はあっても、結果の平等など最初から存在しない。
この明白な事実を認めることからしか、私たちの反撃は始まらない。もし、この電車があなたを押しつぶし、呼吸を奪うだけのものであれば、私たちは「座り方」を競うのではなく、「電車の行き先」を問い直すべきではないか。
全員が座れる列車を設計すること。あるいは、不当な圧力をかける車掌のアナウンスを拒絶すること。私たちが本当に戦うべき相手は、隣で肩をぶつけ合っている同僚でも、椅子を占領している老人でもない。
「乗車券さえあれば自由だ」という幻想を振りまきながら、私たちを酸欠寸前の鉄箱に閉じ込め、それを「進歩」と呼ぶこの歪んだシステムそのものなのだ。私たちは、ただ乗らされているだけの乗客ではない。この暴走する列車のブレーキを、いつだって踏むことができるはずの存在なのだから。
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