「見えない鎖」に繋がれた巨大な象:なぜ日本は敗戦の呪縛から目覚めないのか

我々が感じている「底知れぬ無力感」の正体

朝、目が覚める。スマートフォンの画面を指で弾けば、物価高騰を告げるニュースと、変わることのない政治の茶番が並んでいる。私たちはどこか、この国に対して「何をしても無駄だ」という諦念を抱いてはいないだろうか。

自国の空を自由に飛べない。他国の軍隊が国内で特権を享受している。不平等な条約の影に怯え、外交の舞台では常に「伺い」を立てる。こうした違和感に対し、私たちはいつしか思考を停止させることを選んだ。怒ることさえ忘れ、茹でガエルが熱湯を温泉と誤認するように、この停塞した日常を「現実的な選択」という言葉で塗りつぶしている。

だが、問い直さなければならない。なぜ私たちは、これほどまでに報われないのか。なぜ世界第4位の経済規模を持ちながら、精神的な自尊心はこれほどまでに痩せ細っているのか。その答えは、法典や外交文書の記述よりも、もっと深い「心の檻」の中にある。

巨大な象と、錆びついた細い鎖の寓話

想像してみてほしい。ひとつのサーカス団に、巨躯を誇る一頭の象がいる。その足には、一本の細い鎖が巻かれ、地面に打ち込まれた小さな杭に繋がれている。

象の力をもってすれば、その杭を引き抜くことなど造作もないはずだ。ひとたび鼻を振り、脚を力強く踏み出せば、木製の杭は砕け、鎖は引きちぎられ、象は自由な大地へと駆け出すことができる。しかし、象は微塵も動こうとしない。従順に頭を垂れ、飼育員の顔色を窺い、与えられた乾いた藁を咀嚼するだけだ。

この象は、生まれたばかりの幼い頃から、この鎖に繋がれていた。

赤ん坊の頃の象にとって、その鎖は絶対的な壁だった。力いっぱい引っ張っても、皮膚が擦りむけて血が出るだけで、杭はびくともしなかった。「この鎖には勝てない」「自分はこの杭の範囲でしか生きられない」という教訓が、象の柔らかい脳に深く、鋭く刻み込まれた。

月日が流れ、象は巨大に成長した。筋力は数倍になり、鎖を破壊する力を備えた。それなのに、象はもう挑戦すらしない。足首に冷たい金属の感触を覚えるだけで、脳が勝手に「不可能だ」という命令を下すからだ。鎖は物理的な制約であることをやめ、象の精神を支配する「呪い」へと昇華されたのである。

今の日本の姿は、この老いた象そのものではないか。

現実社会への翻訳:戦後という名の長い幼少期

この比喩を現実の日本社会にスライドさせてみよう。ここでいう「鎖」とは、敗戦直後に押し付けられた対米従属構造、とりわけ日米地位協定という名の不平等な契約である。

日本の空と法を支配する「見えない杭」

戦後、焦土と化した日本にとって、アメリカという存在は圧倒的な「飼育員」であった。国民は飢え、国威は失墜し、生存のために従属を受け入れるしかなかった。その象徴が、今なお横たわる「横田空域」や、日本の国内法が及ばない米軍基地の特権的地位である。

私たちはこれらを「歴史的経緯」や「安全保障上の必要悪」として片付けてきた。しかし、その実態は「学習性無力感」の構造化に他ならない。地位協定の改定を叫んでも無視され、首都の空を米軍機が我が物顔で飛び回る。この光景を何十年も見せつけられることで、日本人の無意識には「アメリカには逆らえない」という、赤ん坊の象と同じ絶望が刷り込まれてしまった。

構造的な病巣と、利益を吸い上げる者たち

なぜこの鎖は、これほど長く維持されているのか。それは、この鎖があることで利益を得る階層が、日本国内に強固に根を張っているからだ。

政治のエリート層にとって、アメリカに従属している限り、自国の防衛や外交における「独自の責任」を負わずに済む。何かがあれば「同盟の重要性」という魔法の杖を振れば、国民の思考を停止させることができる。官僚組織もまた、この歪な構造を前提とした権益を守ることに腐心する。

つまり、外圧を「利用」することで、国内の統治を容易にするという共依存関係が出来上がっているのだ。私たちが無力感に浸っている間、一部の利権層は「鎖」を管理する飼育員の手伝いをして、自らの地位を安泰させているのである。

物理的な制約以上に、精神的な属国根性が染み付いている

私たちが直視すべき残酷な事実は、物理的な鎖がまだそこにあることではない。その鎖が、実はもう「錆びついており、壊そうと思えば壊せるかもしれない」という可能性を自ら否定していることだ。

現代において、国際情勢は激変している。多極化する世界の中で、かつての絶対的な飼育員もまた老い、かつての力は失われつつある。しかし、日本人の精神構造は依然として昭和の敗戦直後のままだ。地位協定の理不尽に対して、沖縄が声を上げ、一部の知識人が警鐘を鳴らしても、本土の大多数は「それは仕方のないことだ」と目を逸らす。これこそが、魂にまで染み付いた「属国根性」の正体である。

本当の悲劇は、鎖に繋がれていることではない。自分が鎖に繋がれているという事実を正当化し、自由の価値を忘れてしまうことだ。

私たちは、いつまで赤ん坊の象のふりをし続けるのか。足元の杭は、もう地面から浮いているかもしれない。鎖は、あなたが力強く一歩を踏み出すだけで砕け散る脆いものに変わっているかもしれない。

物理的な制約を言い訳にするのは、もうやめよう。私たちがまず破壊すべきは、条約の文言でも外交の慣例でもない。自分の心の中にある「どうせ無理だ」という無力感の壁である。自らが「国の主権者」であり、精神的な独立を果たした「大人」であることを思い出したとき、見えない鎖はただの古びた鉄クズへと姿を変えるはずだ。

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