必死に走っているはずなのに、景色が変わらないという絶望
朝、目覚めてから眠りにつくまで、私たちは常に「何かに追われている」ような感覚を抱いている。物価は上がり、実質賃金は下がり続け、将来への不安は霧のように視界を塞ぐ。多くの日本人が、自分は怠けているわけではないと自覚しているはずだ。むしろ、以前よりも必死に働き、節約し、効率化を求めて奔走している。
しかし、ふと立ち止まって周囲を見渡したとき、ある恐ろしい事実に気づく。私たちは一歩も前に進んでいないのではないか。
毎日、ニュースでは「新たな支援策」や「補助金」の決定が華々しく報じられる。それと同時に、いつの間にか「負担増」や「新型の税」の議論が、冷徹な足音を立てて背後に忍び寄る。右の手で小銭を握らされ、左の手で財布からそれ以上の紙幣を抜き取られるような不可解な感覚。この徒労感の正体は何なのか。なぜ、この国という巨大なシステムは、莫大なエネルギーを消費しながら、その場に留まり続けているのだろうか。
想像してみてほしい、ある「呪われた実験車」の狂行
ここに一台の乗用車がある。あなたはその運転席に座らされている。車体は重厚で、エンジンは最新鋭のハイテク機能を備えているはずだ。しかし、この車には設計段階からの致命的な「バグ」が存在する。
まず、助手席に座る男が、給油口から高価なガソリンを惜しみなく注ぎ込んでいる。「ほら、これで走れるぞ。スピードを上げろ!」男は叫ぶ。あなたは言われるがままにアクセルを床まで踏み込む。エンジンは猛烈な咆哮を上げ、回転数は跳ね上がり、ピストンが悲鳴を上げる。車体は激しく振動し、あなたはシートに押し付けられる加速度を期待する。
だが、車は動かない。
ふとバックミラーを見ると、後部座席に座る別の男が、全力でブレーキペダルを蹴り飛ばしているのが見える。それだけではない。車外には数人の男たちが取り付き、あなたがアクセルを吹かすタイミングに合わせて、鋭利なキリで四輪のタイヤに次々と穴を開けているのだ。
シューッという乾いた音と共に空気が抜け、ゴムが焼ける悪臭が立ち込める。エンジンは高熱を発し、車内には警報音が鳴り響く。ガソリンは音を立てて消費され、排気ガスが辺りを真っ白に染める。あなたは必死だ。もっと、もっとアクセルを踏まなければ、この場所から抜け出せない。そう信じて右足に力を込める。
しかし、現実は残酷だ。車体は左右に激しく揺れ、地響きを立てているが、タイヤは地面を捉えることなく、リムがアスファルトを削り、火花を散らすだけだ。一ミリも前進せず、ただ資材と燃料だけが虚空に消えていく。外から見れば、それは滑稽で、かつ狂気じみた「全力の自滅」に他ならない。
矛盾の中に埋没する国家というマシーン
補助金という名の「カンフル剤」と、増税という名の「出血」
この「呪われた実験車」の寓話は、現代日本が直面している無残なまでの構造的矛盾、すなわち「アクセルとブレーキを同時に踏む」政策そのものだ。
例えば、高騰するガソリン価格を抑えるために、政府は石油元売り会社へ巨額の補助金を投入している。これは一見、国民の生活を守る「アクセル」に見える。しかし、その一方で、走行距離課税の検討や防衛増税、社会保険料の段階的な引き上げといった「タイヤに穴を開ける」行為が平然と行われている。
燃料を補給しながら車体を破壊する——この矛盾した行為を同時に行うことで、経済というエンジンは異常な負荷を強いられる。補助金で無理やり下げられた価格は、市場の自浄作用やエネルギー転換のインセンティブを奪い、一方で増税が消費マインドを冷え込ませる。結果として、国民の可処分所得は実質的に増えず、経済成長という「前進」は永遠に訪れない。
なぜ、この「喜劇」は演じられ続けるのか
なぜこれほどまでに不条理な構造が維持されているのか。それは、この非効率な運動そのものが、特定の層にとっての「利益」を生み出しているからだ。
複雑な補助金制度は、それを管理・配分する官僚組織の権限を拡大させ、関連団体への天下り先を確保する。一方で、複雑怪奇な税制は、政治的な交渉材料としての価値を持つ。もしシンプルに「減税」という形で国民の負担を軽減すれば、政府が資金をコントロールする余地は減ってしまう。
彼らにとって重要なのは「車が前進すること」ではない。「車を動かそうとしているポーズを維持し、そのプロセスで発生する膨大な予算を環流させること」なのだ。エンジンが唸り、煙が上がれば上がるほど、仕事をしているという大義名分が生まれる。そのガソリン代(税金)を支払っているのが、他ならぬ運転席の私たちであるという事実は、彼らの計算には入っていない。
「全力の足踏み」を拒絶せよ
私たちは今、決定的な認識の転換を迫られている。政府から与えられる「支援」や「補助金」という甘い言葉に、もう騙されてはいけない。それは、私たちが本来持っていた財布から盗まれた金を、ほんの一部だけ「恩着せがましく」返されているに過ぎないのだ。
「アクセルとブレーキを同時に踏む」政策の本質は、エネルギーの浪費である。どれだけエンジンを回転させても、構造的な欠陥を放置したままでは一歩も先へは進めない。むしろ、激しい摩擦によって車体そのものが修復不可能なほどに損耗していく。
今、必要なのはアクセルをさらに踏み込むことではない。右足と左足が同時に動いているという「狂気」を指摘し、ブレーキから、そして税という名の破壊工作から、彼らの手を引き剥がすことだ。
政策の整合性が取れていない以上、私たちがどれだけ汗を流しても、その努力は構造の隙間から漏れ出す排気ガスに消えていく。私たちは「動いているフリ」を評価するのをやめ、「一歩でも前に進んでいるか」という事実のみを基準に、この国を評価し直さなくてはならない。
前進しない車に、これ以上のガソリンを注いではならない。私たちは、自らの足で地面を蹴り、望む方向へと進む権利を取り戻すべきなのだ。
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