見えない独裁者「空気」に支配された国――なぜ私たちは法なき処刑場に立つのか

私たちを苛む「顔のない視線」の正体

朝、満員の電車に揺られ、あるいは無機質なオフィスでキーボードを叩く。私たちの胸の奥には、常に得体の知れない重苦しさが居座っていないだろうか。それは明文化されたルールへの不満ではない。むしろ、ルールがない場所でこそ、私たちは最も激しく消耗している。

「みんながそうしているから」「今はそういう時期だから」――。そんな曖昧な言葉に、私たちは自身の行動、思考、そして人生までもを委ねてしまう。誰に強制されたわけでもない。銃を突きつけられたわけでもない。しかし、そこには明確な「拒否権の欠如」が存在する。

なぜ私たちは、これほどまでに自由を奪われ、互いを監視し合い、疲弊し続けなければならないのか。その答えは、私たちがこの国の真の支配者の存在を、見ないふりをし続けているからに他ならない。

誰もいない玉座、支配される民衆

想像してみてほしい。あなたは、周囲を高い壁に囲まれた、とある「美しい村」の住人だ。その村には、王様はいない。憲法もなければ、警察が街角に立っているわけでもない。ただ、村の中央広場には、巨大な「古びた鏡」が設置されている。

村人たちは朝起きると、まずその鏡を見る。誰に命じられたわけでもなく、鏡に写る「背景の色」に合わせて、その日の服の色を決めるのだ。ある日、鏡が灰色に濁れば、村人は一斉に喪服のような黒い服を着る。誰か一人が鮮やかな赤い服を着ようものなら、周囲の視線は氷のように冷たく突き刺さる。

「あいつは和を乱している」「鏡を敬っていない」

そんな囁きが風に乗って聞こえてくる。暴力は振るわれない。ただ、翌日からその「赤い服の住人」には、誰も声をかけなくなる。市場で野菜を買おうとしても店主は目を合わさず、井戸端会議の輪は彼が近づくだけで霧が散るように消える。物理的な牢獄はない。だが、彼は村という空間そのものから「消去」されるのだ。

恐ろしいのは、その鏡に色彩を指示する者などどこにもいないということだ。鏡はただ、昨日までの村全体の空気感を反射しているに過ぎない。村人たちは、自分たちが作り出した「反射」を、絶対的な神託として仰ぎ、自ら首を絞め合っている。鏡の中にいるのは、自分たち自身なのだ。

「空気」という名の超法規的独裁

この寓話は、決して遠い世界の物語ではない。現代日本という社会の精密なスケッチである。

法なき罰と自粛という名の強制

かつてパンデミックの渦中で私たちが目撃したのは、この「鏡の国」の完成形だった。政府による強制力を持ったロックダウンが行われなかったにもかかわらず、街からは人影が消え、飲食店はシャッターを下ろした。そこで牙を剥いたのは国家権力ではなく、「自粛警察」と呼ばれる隣人たちだった。

法律ではない。しかし、そこには法律以上に峻厳な「空気」という名の規範が存在した。この「空気」を読み違えた者に待っているのは、法的な罰金ではなく、社会的な抹殺、すなわち現代版の「村八分」である。SNSでの炎上、執拗な嫌がらせ、コミュニティからの追放。私たちは、法治国家の仮面を被った「空気教」の信徒として、互いを処刑し合っている。

構造的な依存:責任の所在不明化

なぜこの歪な構造が維持されるのか。それは、このシステムが「誰にも責任を取らせない」という点で、統治者にとっても被治者にとっても都合が良いからだ。

政治家は「国民の皆様のご理解とご協力」という言葉で責任を転嫁し、企業は「コンプライアンス」という名の保身で個性を削ぎ落とし、個人は「周りもやっているから」という理由で思考を停止する。独裁者がいれば、いつかその独裁者を倒せば自由が手に入る。しかし、支配者が「空気」である以上、倒すべき対象は霧のように掴めない。この「責任の分散」こそが、日本社会を停滞させる最大の病巣である。

日本の真の憲法は、六法全書のどこにも載っていない

私たちは、日本が法治国家であると信じている。しかし、現実は異なる。

この国において、「空気」は法律よりも、そして個人の人権を保障する日本国憲法よりも上位に位置する「絶対的憲法」である。私たちは、条文に書かれた権利を行使することよりも、その場の空気を壊さないことを優先する。理不尽な校則、滅私奉公を美徳とする社風、同調を強いる地域の慣習。これらはすべて、空気という名の独裁者への供物だ。

この構造から抜け出すためには、一人一人が「鏡」から目を逸らす勇気を持つしかない。周囲の視線という「実体のない罰」を恐れず、自分自身の言葉で語り始めること。それは、長年住み慣れた「美しい村」から追放されるリスクを伴うかもしれない。

しかし、誰かが書いたシナリオを、顔色を伺いながら演じ続ける人生に、一体何の意味があるのだろうか。私たちが「空気」を読まなくなったとき、初めてこの国の独裁者は沈黙する。真の自由とは、空気に抗い、あえて不協和音を奏でるその一点にしか存在しないのである。

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