乾いた大地で、私たちは「正しさ」に飢えている
朝、スマートフォンの画面に躍る「物価高騰」や「増税」の文字を眺め、私たちは深い溜息をつく。実質賃金は下がり続け、将来への不安だけが雪だるま式に膨らんでいく。毎日、真面目に働き、節約に励み、将来のために「貯蓄」という名の自己防衛を続けているのに、一向に生活が楽になる気配がない。
それどころか、私たちの周りからは活気が失われ、街並みは色褪せ、若者たちは夢を見ることを諦めたような顔をしている。この閉塞感の正体は何だろうか。私たちは何か決定的な間違いを犯しているのではないか。
「なぜ、これほどまでに報われないのか?」
その答えを求めて統計を紐解けば、ある一つの言葉に行き当たる。「プライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化」という、鉄の戒律だ。国が借金をせず、稼ぎの範囲で支出を抑える。一見すると、家計や企業経営においては「美徳」とされるこの概念が、実はこの国をゆっくりと、確実に死へと追いやっている。私たちは、信仰という名の毒を、自ら進んで飲み続けているのではないだろうか。
聖典を抱いて死みゆく者たちの病室
想像してみてほしい。
目の前に、一人の重傷者が横たわっている。事故か、それとも長年の過労か。彼の顔色は土気色で、呼吸は浅く、体からは生命の源である「血液」が絶え間なく流れ出している。心拍数は下がり、放っておけば数時間もしないうちに命の灯は消えるだろう。
傍らに立つ医者は、焦燥に駆られた様子で輸血の準備を始める。「今すぐ血を入れなければ、この人は助からない。十分な量の血液はある。用意もできている。さあ、今すぐに」
しかし、その瞬間、患者は弱々しく、だが確固たる意志を持って首を振った。患者の枕元には、手垢で汚れた一冊の「聖典」がある。そこには、金文字でこう刻まれていた。《体外から異物を取り入れてはならない。自己の体内で生成されたもののみで生きるべし。借りたものは、魂を汚す毒となる》
患者は、死の淵にありながら、その教義を唱えた。「……輸血は、拒否します。それは私の信仰に反する。私は……清らかなまま、自分の力だけで、回復しなければならないのです……」
看護師たちが悲鳴を上げる。「何を言っているの! 今それどころじゃないわ! あなたはこのままだと死ぬのよ!」しかし、患者の背後に控える「司祭」たちは、厳かな顔で告げる。「彼の言う通りだ。今は苦しいが、この出血を耐え抜き、身を清めることこそが救済への唯一の道。血を借りて生き長らえても、その後に待つのは借金の報いだ。さあ、もっと節制しなさい。もっと出血を抑えなさい。それこそが、正しい正義の生き方なのだ」
病室の床は、流れ出た血で赤く染まっていく。医者が差し出した輸血パックは虚しく放置され、患者の体温は刻一刻と奪われていく。それでも、彼らは笑っている。規律を守り通しているという、狂気じみた満足感の中で。
緊縮財政という名の「宗教的ドグマ」
輸血を拒む「医者」と「患者」の共謀
この不気味な光景は、決してフィクションではない。現在の日本の経済運営そのものである。ここで言う「血液」とは通貨であり、供給されるべき「財政出動」だ。そして「聖典」とは、プライマリーバランス黒字化目標という財政規律に他ならない。
経済学という名の装束を纏った司祭たちは、テレビや新聞を通じて国民に説く。「国の借金は1200兆円を超えた」「将来世代にツケを回すな」「家計と同じで、入る分以上に使ってはいけない」と。これらは一見、道徳的に正しく聞こえる。しかし、マクロ経済の視点から見れば、致命的な誤謬だ。政府の赤字は、民間(私たち)の黒字である。政府が輸血(支出)を止め、体内から血を吸い上げれば(増税)、市場という体は枯渇し、壊死するのは自明の理である。
構造的な病巣:誰がこの「信仰」を守っているのか
なぜ、この異常な状況が放置されているのか。それは、この信仰によって利益を得る構造が存在するからだ。
一つは、財務省を中心とした官僚機構である。彼らにとって「予算の編成権」と「増税」は権力の源泉であり、財政規律という大義名分は、各省庁や国民に対する最強の統制手段となる。もう一つは、現状維持を望む一部の既得権益層だ。デフレが続き、貨幣の価値が相対的に維持されれば、既に資産を持つ者たちにとっては都合が良い。新しい産業が興り、ダイナミックな新陳代謝が起こるよりも、停滞の中で自分たちの分け前を守る方が効率的なのだ。
そして最も悲劇的なのは、他ならぬ私たち国民が、この「節約の美徳」を内面化してしまっていることだ。「苦しいのは、私たちが甘えているからだ」「努力が足りないからだ」という自己責任論が、救いのための輸血を拒む心の壁となっている。
結論:家計簿のロジックで経済を殺してはならない
私たちは、大きな勘違いを正さなければならない。経済は「家計簿」ではない。経済は、絶えず循環し、変化し続ける「生き物」である。
家計であれば、支出を切り詰め、貯金をすることが正解だろう。しかし、国という生命体においては、適切な循環(通貨の供給と投資)が止まった瞬間に、組織全体が壊死し始める。血が足りない時に必要なのは、節摂でも祈りでもない。物理的な「輸血」である。
「借金は悪だ」という教義を守り、清貧の中で餓死することに、一体何の意味があるのか。私たちが守るべきは財政規律という数字の羅列ではなく、今日を生きる人々の生活であり、明日を担う子供たちの可能性であるはずだ。
現在、日本が直面しているのは、財政破綻という幽霊への恐怖ではなく、緊縮という名の宗教による「緩やかな自殺」である。今こそ、私たちは司祭たちの呪縛を振り払い、医者が差し出す輸血パックを受け入れなければならない。経済という生き物を生かすために、古い教義を焼き捨て、現実の血を通わせること。
プライマリーバランスの呪縛から解き放たれた時、初めてこの国は再び、呼吸を始めることができるのだ。
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