報われない努力、滞留する無能
朝、満員電車に揺られ、擦り切れるまで働いても、手元の生活は一向に楽にならない。むしろ、社会全体の閉塞感は増すばかりだ。私たちの多くは、自分が社会という巨大な機械の「部品」であることを自覚している。しかし、その機械が致命的な不具合を起こしているとしたらどうだろうか。
必死に働く者が報われず、無知と無策を晒した者が、なぜか翌月にはまた別の華々しい椅子に座っている。そんな光景を、私たちは何度も見せられてきた。「なぜ、この人物がまた起用されるのか?」「なぜ、失敗の責任を取る者がいないのか?」。その問いは、虚空に消える。
私たちが日々感じているこの徒労感の正体は、個人の能力不足ではない。それは、この国の頂点に巣食う「人事業務のバグ」がもたらした必然的な帰結である。
鉄屑たちの円舞曲――出口なきリサイクル工場の怪
想像してみてほしい。あなたは、ある広大な「リサイクル工場」の管理者だ。コンベヤーの上を流れてくるのは、使い古され、錆びつき、何の機能も果たさなくなった「燃えないゴミ」の山である。
普通の工場であれば、それらは廃棄される。あるいは、溶かして全く別の素材としてやり直すだろう。しかし、この工場には奇妙なルールがある。「どんなに無能な素材であっても、決して捨ててはならない」という掟だ。
作業員たちは、困り果てる。スイッチを押せば火が出るはずの機材は、焦げ付いて動かない。水を汲み上げるはずのポンプは、穴だらけでスカスカだ。それでも上層部は命じる。「この機材を、次は『時計』として組み立て直せ。それがダメなら、今度は『発電機』として登録しろ」と。
工場の空気は、金属が擦れる嫌な音と、焦げたオイルの臭いで満ちている。錆びたネジを無理やり別の穴にねじ込み、外装だけを塗り替えて、新品のふりをして出荷する。しかし、中身はボロボロだ。時計として置かれれば針は進まず、発電機として設置されれば火花を散らして沈黙する。
「この素材は、もう役に立たない。捨てましょう」そう進言する若手作業員は、組織の和を乱す者として即座に更迭される。代わりに入ってくるのは、素材そのものの質ではなく、「どれだけ長く倉庫に保管されていたか(年功序列)」や「どの棚に属していたか(派閥)」を重視する熟練工たちだ。
彼らは、機能しないゴミを別の用途に作り変える作業を「再利用(リサイクル)」と呼び、誇らしげに胸を張る。その間にも、工場から出荷されたガラクタたちのせいで、町のインフラは次々と麻痺していく。それでも工場の中だけは、穏やかな「たらい回し」のルーチンが守られ続けているのだ。
大臣・要職のたらい回しという名の「ゴミ処理」
この異様なリサイクル工場の光景は、決してフィクションではない。日本の統治機構における「大臣・要職の人事」そのものである。
「無能な素材」が「重要役職」という製品に化ける仕組み
政治の世界において、スキャンダルを隠しきれなかった者、あるいは目に見える無策で国民を失望させた者が、わずか1年後には別の省庁のトップとして返り咲く。これは「適材適所」という言葉への冒涜だ。
「燃えないゴミの再利用」というアナロジーにおいて、大臣の席は、単なる「当選回数」や「派閥への貢献」に対する報酬として扱われる。そこには、その人物がその分野の専門知識を持っているか、あるいは変革を起こす意思があるかという評価軸は存在しない。ゴミを別の形にプレス(役職変更)し、公用車と大臣室という新しいパッケージに包んで再出荷する。
しかし、形は変わってもゴミはゴミだ。ITに疎い者がデジタル施策を司り、外交を知らぬ者が国益を交渉する。その結果、作り変えられた「製品」は機能せず、すぐに壊れる。私たちは、その壊れた部品のせいで、国家という機械が停止する寸前であることを知っている。
構造的な病巣:なぜ「廃棄」が許されないのか
なぜ、これほどまでに無能な人材の再利用が繰り返されるのか。そこには、この構造によって「爆速で得をする」層がいるからだ。
それは、政策の継続性よりも「組織の安定」を優先する既得権益層である。派閥という古い共同体において、ポストは資源であり、通貨だ。誰かをポストから排除することは、その背後にある集団の取り分を奪うことを意味する。だからこそ、どれほど無能であっても「貸し借り」の論理でパズルを完成させなければならない。
国民の利便性や国家の成長よりも、身内のメンツとポストの取り分が優先される。この逆転現象こそが、日本を覆う閉塞感の正体だ。有能な若手や専門家が参入する余地は、この「分厚いゴミの層」によって遮断されている。
結論:適材適所という概念の再定義
私たちは、いい加減に認めなければならない。「形を変えれば使えるはずだ」という幻想は、とっくに崩壊している。機能しない素材をどれだけたらい回しにしても、アウトプットされるのは不具合と失われた30年の延長線でしかない。
派閥の論理で決まる人事は、適材適所という概念の対極にある。それは、国家運営を「身内の生活保護」に変質させる行為だ。私たちが求めるべきは、表面的なリサイクル(内閣改造という名の看板替え)ではない。機能しない素材を潔くパージし、真に研ぎ澄まされた新しい素材を、その役割に相応しい場所に配置する。そんな当たり前の重力、当たり前の競争原理を取り戻すことだ。
「この人は、何のプロなのか?」今、目の前の閣僚席に座る人物に対して、私たちはこのシンプルな問いを突きつけ続ける必要がある。
ゴミは、どれほど美しい包装紙で包んでも、ゴミなのだ。私たちは、その包装紙に惑わされるのを辞め、素材そのものの品質を問わねばならない。それが、この出口なきリサイクル工場を脱し、再びこの国を「動く機械」へと再生させる唯一の道である。
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