理由なき維持と消えゆく希望
朝、目が覚めてニュースをつければ、どこかで新しい公共施設の落成式が行われている。あるいは、赤字を垂れ流し続ける地方空港の存続をめぐる議論が、平行線のまま繰り返されている。私たちは薄々気づいているはずだ。この国には、もはや誰も必要としていない「ハコ」が溢れかえっていることに。
地方に住めば、シャッターの降りた商店街の先に、不釣り合いなほど立派な文化ホールや、一日数本しか飛ばない飛行機のための巨大な滑走路を目にすることになる。それらを作るために投じられたのは、私たちが血の滲むような思いで納めた税金だ。しかし、その施設が完成した瞬間に訪れるのは、地域の活性化ではなく、膨大な維持管理費という名の「負債の連鎖」である。
なぜ、私たちはこれほどまでに報われないのか。なぜ、明らかに失敗しているプロジェクトを止めることができず、あたかも成功しているかのように振る舞い続けなければならないのか。その答えは、経済合理性などという高尚な場所にはない、もっと泥臭く、不条理な「共同幻想」の中に隠されている。
誰も乗らないジェットコースターが回る場所
想像してみてほしい。あなたは今、深い山奥に建設された広大な遊園地のゲートに立っている。エントランスには最新の電光掲示板が輝き、スピーカーからは陽気な音楽が鳴り響いている。チケット売り場のスタッフは完璧な制服に身を包み、非の打ちどころのない笑顔であなたを迎えるだろう。
しかし、一歩足を踏み入れれば、そこには異様な静寂が支配している。100億円を投じて作られた最新鋭のジェットコースターは、空の座席を載せたままガタガタとレールを走っている。行列ができるはずのポップコーンの香りは、湿った森の匂いに飲み込まれ、錆びついた観覧車のゴンドラは、風に吹かれて物悲しい音を立てている。
客席には、誰もいない。園内にいるのは、機械を点検する作業員と、見えない客に向かって手を振り続けるキャストだけだ。あなたは不思議に思うはずだ。「なぜ、客が一人もいないのに、この遊園地は閉鎖されないのか?」と。
オーナーに尋ねれば、彼は真顔でこう答えるだろう。「今はまだ認知度が低いだけだ。もっと大きなパレードを開催し、さらに豪華なアトラクションを増設すれば、いつか世界中から観光客が押し寄せる。そのために、今は歯を食いしばって維持費を払い続ける必要があるのだ」と。だが、その遊園地へ続く道は、離脱不可能なほど荒れ果て、周辺には宿泊施設一つ存在しない。彼はその現実から目を逸らし、ただ手元の「来場者予測グラフ」という名の、自らが描いた願望の絵図だけを見つめている。そして、維持費が足りなくなれば、彼は近隣の村人から強引に寄付を募り、再び誰も乗らないコースターのネジを巻き始めるのだ。
「願望」という名の粉飾決済
この「客のいない遊園地」の正体こそが、現代日本が抱える地方空港や巨大公共施設の実態に他ならない。
需要予測という名の免罪符
「作れば人が来る」。この呪文にも似たスローガンのもと、日本各地には100近い空港が乱立した。建設前の調査では、常に「バラ色の需要予測」が提示される。数十年後には年間数十万人の利用客が見込め、地域経済に数千億円の波及効果をもたらす……。しかし、これらは計算に基づく「予測」ではなく、予算を確保するための「願望」に過ぎない。官僚や政治家がハンコを押すためのアリバイ作りとして、都合の良い数字だけが抽出され、積み上げられる。いざ完成を迎えれば、ターゲットとなる人々は高齢化し、移動手段は多様化し、当初の前提は崩れ去っている。だが、一度動き出したプロジェクトを止める装置は、この国のシステムには組み込まれていないのだ。
利権が生み出す廃墟の生態系
なぜ、この不条理な構造は維持されるのか。それは、施設が「使われること」ではなく「作ること」自体が目的化しているからだ。巨大なハコモノが一つ動けば、莫大な建設費が特定の業者へ流れ、政治的な集票力へと変換される。自治体にとっては、国から補助金を引っ張り出すこと自体が「仕事をした」という実績になる。運用が始まってからの赤字は、次世代へのツケとして先送りすればいい。この構造の中では、施設が廃墟化しようとも、管理運営を行う天下り法人やメンテナンスを請け負う業者が存在する限り、「得をする人間」が一定数残り続ける。すなわち、一般市民の納税が、特定少数のための「維持費バイパス」として機能しているのである。
壊れた羅針盤を捨て、現実を見据える勇気
私たちはいつまで、この「客のいない遊園地」の維持費を払い続けなければならないのか。公共事業の本来の目的は、人々の生活を豊かにし、持続可能な社会の基盤を築くことにあるはずだ。しかし現状は、過去の成功体験という名の幽霊に突き動かされ、未来の資産を食いつぶす「緩やかな自死」を選んでいる。
核心的な問題は、需要予測という名の「願望」で動く公共事業には、責任の所在がどこにもないことだ。予測が外れても誰も責任を取らず、追加投資という名の延命措置が繰り返される。これこそが、この国の閉塞感の正体である。
もはや、地図に載っていない楽園を夢想して、原野にコンクリートを流し込む時代は終わった。今求められているのは、豪華なアトラクションを増設することではない。動かなくなった観覧車を解体する勇気であり、身の丈に合った「持続可能な公共の形」を再定義することだ。
「作れば来る」という幻想を捨て、現実に足をつける。その痛みを伴う選択なしに、この国の疲弊が止まることはないだろう。私たちは、ただ手を振るだけのキャストを演じるのを辞め、閉園への議論を始めるべき時に来ている。それこそが、未来を生み出す唯一の希望なのだから。
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