Jアラートが鳴り響く朝に、なぜ私たちは「二度寝」を選択するのか――平和という名の致死的な麻痺

鳴り響く音色を「生活のノイズ」として処理する私たちの末路

スマートフォンの画面が真っ赤に染まり、けたたましい警告音が寝室を支配する。北朝鮮からミサイルが発射されたという。本来であれば、それは生存を賭けた避難への合図であるはずだ。しかし、現代の日本において、この音を聞いて本気で死を覚悟し、避難行動に移る者がどれほどいるだろうか。

多くの者は、半ば呆れた顔でスマートフォンの画面をスワイプして通知を消し、テレビを点けて「またか」と呟く。あるいは、その音にすら気づかないふりをして、いつも通り通勤電車のホームへ向かう。そこにあるのは、切迫した危機感ではなく、朝の平穏を乱されたことへの微かな苛立ちである。

私たちは、いつからこれほどまでに「死」の予感に対して鈍感になってしまったのか。なぜ、国家が発する最大級の警告を、単なる「生活のノイズ」として処理できるようになったのか。私たちが陥っているのは、単なる平和慣れではない。それは、生存本能そのものが機能不全に陥った、構造的な「昏睡状態」である。

想像してほしい:狼が吠えるたびに眠りにつく羊たちの群れを

霧の深い、静かな村がある。その村には、古くから「狼の警報機」が設置されていた。村人たちはかつて、その音が鳴るたびに家を飛び出し、武器を手に取り、地下室へと逃げ込んだ。狼は実在し、彼らの生活を脅かす恐怖そのものだったからだ。

しかし、長い年月が流れた。警報機は古び、制御システムは狂い始める。一月に一度、いや一週間に一度、警報機は轟音を響かせるようになった。村人は最初のうちは慌てたが、外を覗いても狼の影一つ見当たらない。空は青く、風は穏やかで、近所の家の洗濯物が揺れているだけだ。

「なんだ、また故障か」

一人がそう言い、農作業を再開する。やがて、警報が鳴り響く中で、村人たちはマーケットで談笑し、カフェで茶を飲むようになった。親は子供に教える。「あの音はね、ただのBGMのようなものだよ。気にする必要はない。それよりも、今日のテストの心配をしなさい」と。

ある冬の朝、ついに本物の狼が、何百という群れを成して村の境界線を越えた。警報機はこれまでで最も激しく、壊れんばかりに絶叫した。しかし、村人たちは心地よい布団の中で、その音を夢の中の雑音として処理した。「うるさいな、明日のゴミ出しは何時だったか」と考えながら、彼らは二度寝に落ちた。

牙が喉元に届くその瞬間まで、彼らは自分たちが「安全」な世界にいると信じて疑わなかった。この村において、警報機はもはや安全を守る装置ではなく、死への確実な誘導装置へと変貌していたのだ。

現実社会への翻訳:狼少年の寓話が国家規模で繰り返される悲劇

届かないアラートと機能不全のシステム

この「音の出ない警報機」の比喩は、現代日本におけるJアラート(全国瞬時警報システム)を巡る状況そのものである。ミサイルが発射される。警報が鳴る。しかし、そこには具体的な「逃げ場所」も、「生き残るための指図」も存在しない。地下鉄に潜り込めと言われても、地方には地下鉄などない。頑丈な建物へ逃げろと言われても、木造家屋に囲まれた住宅街では無意味だ。

結果として、国民は「どうせ何も起きない」という経験則に基づいたギャンブルを繰り返すことになる。これは「正常性バイアス」と呼ばれる心理メカニズムだが、日本の場合はさらに深刻だ。政府もメディアも、ただ音を鳴らすこと自体が目的化しており、その後の生存確率を高めるための実効的な議論を放置し続けているからだ。

構造的な病巣と、誰が得をしているのか

なぜ、この「無意味な警報」の茶番劇は維持されるのか。そこには、責任の所在を曖昧にするという政治的力学が働いている。政府にとって、Jアラートを鳴らすことは「やっている感」の演出である。警報を鳴らしさえすれば、万が一の事態が起きた際も「我々は警告した」という免罪符が得られる。一方で、国民が本当にパニックを起こし、経済活動が停止することを彼らは最も恐れている。だからこそ、「警告はするが、避難先は各自で考えろ」という無責任なスタンスを貫く。

防衛産業やセキュリティに関連する層にとっても、この「慢性的な微温湯の危機」は都合が良い。真の危機意識が芽生え、抜本的なシェルター整備や防衛論議が始まれば、多額の予算と政治的コストが必要になる。しかし、今のまま「たまに音が鳴る」程度であれば、劇的な変化を求められることなく、現状維持の予算を確保し続けることができる。

私たちは、国全体で「狼少年の寓話」を演じさせられている観客であり、同時にいつ食われるか分からない羊なのである。

結論:危機感の麻痺という、目に見えない「最大の脆弱性」

真の悲劇は、ミサイルが着弾することそのものではない。ミサイルが降ってくるかもしれない空の下で、私たちがスマホの画面を見つめながら「何も起きないこと」を祈ることしかできなくなっている、その精神的な去勢にある。

「音の出ない警報機」に慣れきった社会は、本物の危機が訪れた際に真っ先に崩壊する。兵器による直接的な攻撃よりも、敵にとって効率的な攻撃手段がある。それは、相手の危機感を麻痺させ、警告を単なる騒音だと思い込ませることだ。反応できない獲物は、もはや狩るまでもない存在である。

私たちは今、問い直さなければならない。耳元で鳴り響くその音は、本当にただのノイズなのか。あるいは、私たちの思考停止を嘲笑う葬送曲なのか。

危機感の麻痺は、兵器による攻撃よりも致命的な脆弱性である。

この不条理な構造を打破する第一歩は、政府が流す音に盲従することでも、無視することでもない。自分たちの命を守る構造がいかに脆弱であるかを直視し、この「安全神話」という名の深い眠りから、自らの意志で覚醒することだ。次にアラートが鳴った時、あなたが感じるべきは恐怖ではなく、この不条理なシステムに対する冷徹な怒りでなければならない。

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