民主主義という名の「世襲制」——なぜこの国の教室には、新しい風が吹かないのか

努力が消え失せた街の、重苦しい閉塞感の正体

朝、目が覚めて時計を見る。満員電車に揺られ、あるいは形ばかりのリモートワークをこなし、私たちは「いつか報われる日」を夢見て、今日という日を削り出す。だが、ふとした瞬間に心に冷たい刃を突きつけられるような錯覚に陥ることはないだろうか。「このゲームは、最初から勝ちが決まっているのではないか?」と。

手取り給与は増えず、社会保険料だけが静かに、しかし確実に牙を剥く。教育格差は広がり、生まれた家庭の経済力が子供の学歴と将来を規定する。私たちは自由な社会に生きているはずだ。民主主義という、誰もが等しく一票を持ち、等しくチャンスを与えられるフェアなシステムの中にいるはずだ。

しかし、現実はどうだ。テレビの画面越しに並ぶ政治家たちの顔ぶれを見て、既視感を覚えない者はいないだろう。数十年前と同じ名字、同じ地盤、同じ「お家」の論理。もし、私たちが生きるこの社会が、一室の「教室」だったとしたら、そこでは正視に耐えない不条理が日常としてまかり通っている。

永久に続く「終わりのない、ある教室」の風景

想像してみてほしい。そこは、ある閉鎖的な学校の、とある教室だ。窓の外にはどんよりとした灰色の空が広がり、校庭の遊具は錆びつき、昭和の残り香が漂う校舎である。チャイムの音はどこか調子が外れているが、誰もそれを直そうとはしない。

この教室には、この学校で最も奇妙な、そして絶対的なルールがある。「クラス替えが決して行われない」こと。そして、「座る席は、親から子へ引き継がれる」ことだ。

最前列の、日当たりの良い、教壇に最も近い特等席。そこには、代々その街を支配してきた有力者の息子が座っている。彼が教科書を忘れても、居眠りをしていても、先生(執行部)は決して彼を叱らない。それどころか、昼休みになれば周りの生徒たちが、彼に気に入られようとパンを買いに走り、宿題を代行する。なぜなら、彼が「次の級長」になることは、彼が生まれる前から決まっているからだ。

一方で、後ろの暗い席に座る君はどうだろうか。君の親もまた、その隅っこの席で一生を過ごした。君がどれほど優秀な成績を収めても、どれほどこのクラスを良くするための素晴らしいアイデアを提案しても、君が最前列に座ることは絶対に許されない。そもそも、この教室には「転校生」が入ってくる隙間さえない。窓は固く閉ざされ、入り口の扉には「伝統という名の鍵」がかけられているのだ。

教室の空気は澱んでいる。最前列の者たちは、現状が変わらないことを何よりも望んでいる。彼らにとって、この不条理な静寂こそが特権を守るための「安定」だからだ。努力する必要のない者たちがリーダーを気取り、努力しても報われない者たちが絶望を飲み込む。そこには、未来を変えようとする熱量など微塵も存在しない。

現代日本を蝕む「家業としての政治」という病理

この歪な教室の風景は、単なるフィクションではない。私たちの国の国会というパノラマを、高い解像度で描写したものに他ならない。

血統が能力を凌駕する「現代の身分制社会」

日本の国会議員のうち、約3割が世襲議員であると言われている。特に、政権を担う主要政党の幹部層に至っては、その割合は絶望的なまでに跳ね上がる。「地盤(組織)・看板(知名度)・鞄(資金)」という、政治家として戦うための武装のすべてを無償で、かつ無税に近い形で受け継ぐ彼らにとって、選挙とは「国民の審判」ではなく、単なる「相続の儀式」に過ぎない。

これは実質的な、現代の身分制社会である。どんなに志を持ち、社会を良くしたいと願う若者が現れたとしても、彼らが「親から譲り受けた特等席」を持つ二世、三世候補に勝つことは極めて困難だ。スタートラインが数キロメートル先にある相手と、裸足で競走させられているようなものだ。

構造的な病巣:誰がこの閉塞を望んでいるのか

なぜ、この構造は維持されるのか。答えは明快だ。この「クラス替えのない教室」で利益を享受している者たちが、ルールの書き手だからである。

世襲議員たちは、親の代から続く利権関係、地元の有力企業との癒着、そして固定化された支持基盤を維持することに全精力を注ぐ。彼らにとっての「国民」とは、顔の見える有権者ではなく、自分を支えてくれる特定の既得権益層だ。ここに、イノベーションや抜本的な構造改革が入り込む余地はない。新しいアイデアが生まれれば、それは旧来の構造を壊すことになり、彼らの特等席を脅かすからだ。

この国の政治が、かつての成功体験に固執し、デジタル化や少子化対策で周辺国に大きく遅れを取っているのは、決して「能力不足」だけが原因ではない。リーダーたちが、そもそも「変える必要がない」環境で育ち、選ばれてきたからである。

政治が家業化した国で、改革が起きるはずがない

私たちは今、大きな勘違いを正さなければならない。政治家を「公僕(パブリック・サーヴァント)」だと信じるのは、もうやめにしよう。現在のこの国において、多くの有力政治家にとって、政治とは「公務」ではなく「家業」なのだ。

老舗の和菓子屋の跡取りが、先代からの味を守るように、彼らは先代からの「権力構造」を守っている。そこにあるのは、社会をアップデートしようという意志ではなく、家を存続させ、財産を維持しようという、極めて私的な執着である。

「政治家が家業化した国で、改革が起きるはずがない。」

この冷徹な真実を、私たちは直視すべきだ。クラス替えを行わず、能力に関係なく親の席に座り続けることを許可しているのは、他ならぬ私たち「教室の住人」の、ある種の諦念ではないだろうか。

もし、君がこの澱んだ空気から抜け出したいと願うなら、まず「この教室のルールはおかしい」と声を上げることから始めなければならない。血統や伝統という言葉で粉飾された「不公平な相続」を、本来の民主主義へと引き戻す唯一の方法は、私たちがその「不条理な席替え」に加担するのをやめることだ。

席が親から子へ引き継がれることが常識となった教室で、本物の奇跡が起きることはない。必要なのは、窓を割り、扉を壊し、新しい風を無理矢理にでも引き込むこと。家業としての政治に終止符を打ち、再び「努力と志」が評価される戦場へと、この国を書き換えなければならない。

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