聖域化する「正しさ」が奪う、私たちの呼吸。
朝、ニュースを見れば誰かが謝罪し、SNSを開けば誰かが吊るし上げられている。現代社会において、私たちはかつてないほど「言葉」に臆病になっている。誰かを傷つけてはいけない、不快にさせてはいけない、公序良俗に反してはいけない。その「正しさ」の暴力的なまでの圧力に、あなたは息苦しさを感じたことはないだろうか。
私たちの自由を奪っているのは、国家による強権的な検閲ではない。隣人が、同僚が、そして自分自身が、見えない「配慮」という網を張り巡らせ、互いの首を絞め合っているのだ。社会をより良くするためのアップデートであったはずのポリコレ(政治的正しさ)は、いつしか異端者を焙り出すための踏み絵へと変貌した。その結果、私たちは何を得たのか。清潔で、無色透明で、そして毒にも薬にもならない、去勢された言葉の羅列だ。
なぜ、私たちはこれほどまでに報われないのか。それは、社会が抱える本質的な矛盾や危機を指摘する「刃」としての言葉が、すべて「不快」というラベルを貼られて没収されてしまったからである。
炭鉱の闇に響く、羽ばたきの絶命
想像してみてほしい。あなたは、地下深くに掘り進められた巨大な炭鉱の底にいる。そこは、太陽の光も届かない湿った暗闇だ。周囲には、あなたと同じようにツルハシを振るう数千、数万の労働者たちがいる。その暗闇の中で、唯一の希望であり、生命線となるのが、入り口のケージに入れられた小さな一羽のカナリアだ。
カナリアは美しい声で鳴いている。その歌声は、過酷な労働の中での唯一の慰めだ。しかし、ある時、一人の労働者が眉をひそめる。「その鳥の声がうるさくて、仕事に集中できない。不快だ」別の者が同調する。「そもそも、なぜこの鳥だけが歌を歌い、我々は泥にまみれて働かねばならないのか。不公平だ」やがて、その声は大きなうねりとなり、管理者に届けられる。管理者は微笑んで答える。「分かりました。皆さんの感情に配慮し、不快な鳴き声を禁止しましょう」
管理者はカナリアの喉を潰し、あるいは鳴かないように布を被せる。炭鉱には静寂が訪れた。誰の感情も害さない、平穏な時間だ。ところが、異変は静かに、確実に忍び寄る。足元から、無色透明、無味無臭のガスが染み出し始める。かつてなら、カナリアが激しく羽ばたき、あるいはその小さな命を散らすことで、死を賭して「危険」を知らせてくれたはずだった。しかし、今はどうだ。カナリアは沈黙し、あるいは「配慮」によって命そのものを軽視され、片隅で静かに息絶えている。
労働者たちは、平穏を謳歌しながら、死のガスを深く吸い込む。そして、ある者が火をつけた瞬間――炭鉱は、巨大な火柱とともに崩壊する。誰も警告しなかったのではない。警告する存在を、自らの手で排除したのだ。
言論統制という名の「安全装置の破壊」
「不快」という名のセンサーを切り捨てた代償
この比喩は、決して遠い夢物語ではない。現代社会において、カナリアとは「異論を唱える者」であり、炭鉱のガスとは「社会構造に溜まった歪み」そのものである。
かつて、ジャーナリズムや批評は、社会の不都合な真実を暴くカナリアの役割を果たしていた。たとえそれが耳障りな言葉であっても、あるいは大衆の感情を逆なでするものであっても、そこに「真実の一端」が含まれている限り、社会はそれを許容する度量を持っていた。しかし、現代の「ポリコレ(政治的正しさ)」や「キャンセル・カルチャー」の蔓延は、この安全装置を根底から破壊しつつある。
誰かのアイデンティティを傷つける表現、特定の層が不快に感じる分析、伝統的な価値観を揺さぶる批判。これらはすべて「ヘイト」や「不適切」という大義名分のもとに、議論のテーブルから排除される。それは単に言葉が消えることを意味しない。その言葉が指し示していた「現実の危機」そのものが、認識の範疇から消し去られることを意味する。
偽りの平穏を維持する構造的病巣
なぜ、この不条理な構造は維持されるのか。それは、この「沈黙」によって得をする勢力が存在するからだ。
一つは、責任を取りたくない決定権者たちだ。抜本的な改革には痛みが伴い、多方面からの批判を受ける。しかし、「配慮」を口実に議論を封殺してしまえば、当面の間は「誰も傷つけない平和なリーダー」を演じることができる。問題の先送りを、彼らは「多様性への尊重」という美しい言葉で着飾るのだ。
もう一つは、道徳的優位性に飢えた大衆だ。他者の言葉を狩り、正義の鉄槌を下す行為は、安価で強烈な快楽をもたらす。自らの生活が困窮し、未来に希望が持てない中で、唯一自分が「正しい側」に立てる瞬間。それがポリコレによる魔女狩りだ。彼らは、自らが吸い込んでいる「社会崩壊のガス」に気づかず、隣り合うカナリアを黙らせることに埋没している。
批判が消え、異論が排除された社会では、組織は自己修正能力を失う。権力は腐敗し、経済の歪みは放置され、弱者は「誰も傷つけてはいけない」というルールの下で、声を上げる手段さえ奪われる。
結論:不快な言葉こそが、あなたを自由にする
私たちは今、大きな分岐点に立っている。このまま「不快なものは見ない」という温室の中で、静かに窒息死を待つのか。それとも、耳障りなカナリアの鳴き声を受け入れ、現実の危機に直面するのか。
「不快な言葉」を排除した結果、現実の危険が見えなくなる。これこそが、現代社会が抱える最大のトラップだ。私たちが守るべきは、心地よい賛辞ではない。自分にとって受け入れがたい、反吐が出るような、あるいは背筋が凍るような「異論」である。なぜなら、その不快感こそが、あなたの脳に届いた「警告アラート」だからだ。
誰かが何かを激しく批判しているとき、脊髄反射で「不適切だ」と切り捨てる前に、少しだけ立ち止まってほしい。そのカナリアは、何の予兆を感じて鳴いているのか。その鳴き声が止まったとき、次に死ぬのはあなたかもしれない。
言葉のトゲを抜くことは、社会の牙を抜くことと同義だ。野生の思考を取り戻せ。不快を受け入れる強さを持て。沈黙するカナリアたちが再び鳴き始めるまで、私たちはこの窒息しそうな「正しさ」の海を、自らの意志で泳ぎ切らねばならない。
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