豊かさの背後で増幅する、得体の知れない「空虚さ」の正体
私たちは、目に見える数字の増殖を「成長」と呼び、積み上がるコンクリートの塊を「資産」と呼んできた。朝から晩まで働き、家族との時間を削り、将来への不安を打ち消すために、私たちはその「硬いはずの価値」に人生を賭ける。しかし、ふとした瞬間に、足元がかすかに揺らいでいるような感覚に陥ることはないだろうか。
必死に働き、ローンを完済すれば「上がり」だという神話。不動産を持てば一生安泰だという信仰。それらは、私たちがこの社会で正気を保つための生命維持装置のように機能している。だが、もしその前提そのものが、誰かが描いた精巧な嘘だとしたら? 私たちが積み上げてきた努力が、実は土台のない絶壁の縁で行われていたとしたら、これほどの悲劇はない。
なぜこれほどまでに私たちは、形あるものの「永続性」を信じ込み、その裏側に潜む危うさを無視し続けてしまうのだろうか。その答えは、私たちが自ら進んで足を踏み入れた、ある奇妙な物語の中にある。
「永遠に未完成」のビルに住み続ける、狂気の住人たち
想像してみてほしい。あなたは、どこまでも続く荒涼とした砂漠の中に立っている。そこには、天を突くほどに巨大な、ガラス張りの超高層ビルがそびえ立っている。その名は「恒久の栄華」。
このビルの設計図には、ある致命的な欠陥があった。基礎が全く存在しないのだ。鉄筋は砂の上に直接置かれ、柱は自重に耐えかねて、秒単位でミリ単位の沈下を続けている。それにもかかわらず、ビルの大家は豪華なスーツに身を包み、拡声器で叫び続けている。「このビルこそが、世界で最も安全で、最も価値のある場所だ! 入居すれば明日の富が約束される!」と。
ビルはすでに傾き始めている。壁には蜘蛛の巣のような亀裂が走り、夜静まり返ると、構造材が悲鳴を上げるギギギという音が廊下に響き渡る。窓の外を見れば、下の階がじわじわと砂に飲み込まれていくのが見える。だが、住人たちはその事実から目を逸らす。なぜなら、彼らもまた、隣人にこの部屋を「より高値で売る」ことだけを目的として入居したからだ。
「まだ大丈夫だ。大家がそう言っている。新しい入居者が次々と来ているじゃないか」。
大家は、傾いた床を水平に見せるために、家具の脚に紙を挟んで回る。亀裂が走れば、目にも止まらぬ速さで美しい壁紙を貼り直す。そして、新しい入居者から徴収した「予約金」を使って、さらにその上に、もう一つ新しい階層を積み上げようとする。土台が沈んでいるのに、上を重くするという狂気。それでも、人々はこのビルの一部を所有しているという証明書を握りしめ、自分たちは成功者だと思い込もうとしている。風が吹けば、砂が舞い、ビルの輪郭が霞む。その不吉な予兆に気づいている者は、ここには一人もいない。
「不動産神話」という、終わりのないポンジ・スキームの構造
国家規模で展開される「砂の城」の維持
この悪夢のような光景は、決して遠い異国の出来事ではない。中国における恒大集団(エバーグランデ)の失速、そしてそれに端を発した不動産危機の構図は、まさにこの「砂上の楼閣」そのものである。
彼らが売っていたのは「住宅」ではない。「明日になれば値上がりする」という名の熱狂である。基礎工事すら始まっていない更地の権利を売り、そのキャッシュを元手に次の土地を買い、さらにビルを建てる。この連鎖が続く限り、虚構は現実として振る舞い続ける。しかし、一度でも「買い手」という名の燃料が途切れた瞬間、重力は残酷なまでにその正体を暴き出す。
構造的な病巣と、延命措置の罪
なぜ、これほどまでに明白な不合理が、国家を揺るがす規模になるまで放置されたのか。それは、このシステムが「誰もが共犯者になれる」仕組みだったからだ。
- 地方政府の依存: 土地の使用権を売却することで莫大な財源を得る政府にとって、不動産価格の下落は「死」を意味する。
- 中産階級の幻想: 他に投資先のない市民にとって、マンションは唯一の「資産防衛」の手段であった。
- 金融機関の盲信: 「不動産は倒れない」という神話を前提に融資を膨らませた銀行。
この三者が互いに手を取り合い、ビルの傾斜を隠し続けてきた。誰かが「このビルは倒れるぞ」と叫ぶことは、関わる全員の資産を無価値にすることを意味する。だからこそ、誰も真実を口にせず、ただ新しい壁紙が貼られるのを待つ。この「沈黙の合意」こそが、不条理を構造化する正体である。
欲望という砂で固められた経済は、風が吹けば霧散する
私たちは今、大きな転換点に立っている。不動産であれ、暗号資産であれ、あるいは実体のない経済成長であれ、私たちが必死に積み上げてきたものの多くが、実は「他者の欲望」という不安定な砂の上に立っていることに気づき始めている。
実体なき神話に依存した経済は、本質的に脆い。どれほど高く積み上げ、どれほど黄金で装飾したとしても、土台が「将来への期待」という不確かな感情である限り、それは一度の強い風で塵に帰す運命にある。
「欲望という砂で固められた経済は、風が吹けば霧散する。」
この事実は、絶望ではなく、むしろ救いであるべきだ。私たちは、目に見える「所有」の多寡で幸福を競い合うゲームから、降りる時が来ている。ビルの高さに一喜一憂するのではなく、自分たちが立っている地面の固さを、自分自身の感性で確かめ直さなければならない。
借り物の欲望で築き上げた楼閣が崩れ去る時、最後に残るのは、砂にまみれてもなお消えない「本物の価値」だけである。私たちは、崩壊を恐れるのをやめ、砂を洗い流し、その下にある真に豊かな営みを再発見すべきだ。風は、嘘を吹き飛ばすために吹いているのだから。
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