平和という名の深い眠りに落ちた人々
朝、ニュースを眺めれば、海の向こうでは砲火が上がり、罪のない人々の悲鳴が響いている。しかし、スマートフォンの画面を閉じ、一歩外へ出れば、そこには驚くほど静穏な日本の日常がある。焼きたてのパンの匂い、定刻通りに滑り込む電車、そして絶え間なく続く消費の喧騒。この乖離に、あなたは言いようのない違和感を覚えたことはないだろうか。
私たちは「平和」という言葉を、まるで無料の空気のように享受している。だが、その背後にあるのは、思考停止という名の重い病だ。物価は上がり、実質賃金は下がり続け、将来への不安だけが肥大化していく。それにもかかわらず、私たちは決定的な「生存の危機」からは目を背け続けている。「日本だけは大丈夫だ」「憲法さえ守っていれば、惨劇は対岸の火事で済む」という、根拠のない盲信。
なぜ、私たちはこれほどまでに行き詰まりを感じながら、その根本にある「国を守る」という本質的な議論から逃げ出し、空虚な理想論に縒りを戻してしまうのか。その答えは、私たちが自らを作り上げた奇妙な役割に隠されている。
絶海に浮かぶ「孤立した灯台」の悲劇
想像してみてほしい。そこは、荒れ狂う冬の大海原だ。見渡す限りの黒い波濤が、執拗に船を飲み込もうと牙を剥いている。世界中の船——つまり諸外国——は、互いに通信をかわし、進路を調整し、時には激しく衝突しながらも、生き残るために必死に舵を切っている。その海域は、まさに弱肉強食の地獄絵図だ。
その嵐のただ中に、一つの奇妙な建造物がある。岩礁の上にそびえ立つ、白く輝く「灯台」だ。
この灯台の名前は「ジャパン」。この灯台のルールはただ一つ、「自分は決して戦わない。ただ光を放ち続けることが正義である」という信念だ。灯台の中で暮らす人々は、磨き上げられたレンズから放たれる美しい光に陶酔している。「見てごらん、周囲はあれほど暗く、醜い争いに満ちているが、私たちの場所だけはこれほどまでに明るく、清潔で、平和に満ちている」と。
灯台の管理人は、外の嵐など存在しないかのように、毎日決まった時間にレンズを磨く。外から「助けてくれ!」「海路を教えてくれ!」という船の叫び声が聞こえてきても、彼は窓を閉め、耳を塞ぐ。「私たちは争いに関わらない。それが最も高潔な生き方なのだ」とつぶやきながら。
しかし、現実は非情だ。周囲の船にとって、その灯台はもはや「道標」ではない。岩礁を照らしておきながら、座礁しそうな船に手を貸すことも、荒波の情報を共有することもしないその光は、ただの「動かない障害物」でしかない。船たちは気付く。あの灯台は、自分たちの安全だけを守り、他者の苦境を無視して理想を叫んでいるだけなのだ、と。やがて、船たちは灯台を無視し、その周囲を通ることをやめる。灯台は、世界で最も明るい場所でありながら、世界で最も孤独な場所へと成り果てるのだ。
理想という名の「遭難信号」を出し続ける国家
ガラパゴス化した平和主義の正体
この「孤立した灯台」の寓話は、現代日本が陥っている「ガラパゴス型平和主義」そのものである。私たちが「平和憲法があるから安全だ」と信じているその叫びは、国際社会という大海原においては、もはや共感を得るための言葉ではなく、孤立を招く「遭難信号」に等しい。
世界は現在、冷戦以来の激動期にある。パワーバランスが崩れ、力による現状変更が肯定される時代へと逆戻りしている。周辺諸国が軍備を増強し、同盟関係を再構築する中で、日本だけが「独自の平和主義」を隠れ蓑にして、具体的な貢献や痛みを伴う決断を避け続けている。これは、嵐の中で船を出すことを拒み、灯台の中に閉じこもって「私は正しい」と叫んでいるようなものだ。
偽りの安寧を維持する構造的病巣
なぜ、この不条理な構造は維持されるのか。それは、この「思考停止」が、特定の利害関係者にとって極めて都合が良いからだ。
第一に、政治家にとって、抜本的な安全保障の議論はリスクでしかない。憲法議論や集団的自衛権の本質に踏み込めば、世論を二分し、議席を失う恐れがある。だからこそ、彼らは「現状維持」という名の緩慢な死を選択する。
第二に、戦後日本を支配した「経済第一主義」という呪縛だ。安全保障を他国(米国)にアウトソーシングし、浮いたリソースを経済成長に充てるという戦略は、かつては成功した。しかし、その成功体験が、今や「自分の身を自分で守る」という国家としての基本動作を忘れさせてしまった。
誰が得をしているのか。それは、日本が「意志を持たない灯台」であり続けることを望む周辺諸国だ。日本が理想論に溺れ、現実的な防衛能力や外交力を行使しない限り、彼らにとって日本は御しやすいターゲットであり続ける。私たちの「平和主義」は、他国にとっては「隙」という名に翻訳されているのだ。
「平和への祈り」が平和を壊す時
私たちは、そろそろ認めなければならない。灯台が光を放っているだけで周囲が静まるなどという奇跡は、この地球上のどこにも存在しないということを。
「自分だけは被害者になりたくない」「自分だけは手を汚したくない」という一国平和主義は、一見すると道徳的に見えるが、その実、極めて利己的で臆病な姿勢である。国際社会の一員として、他者の痛みに責任を持ち、秩序の維持に主体的に関わらない者は、いつかその秩序が崩壊した時に、真っ先に波に飲み込まれる。
灯台を守る管理人が、嵐の中で窓を開け、海に飛び込んで溺れる者を救い、自らも船を操る技術を学ぶことを決意しなければ、その灯台に明日はない。
一国平和主義は、国際社会という大海原では遭難信号と同じ。
私たちが発しているのは、高潔な理想ではなく、助けを求める恥知らずな叫びではないのか。今、私たちに求められているのは、眩しすぎる理想のレンズを一度割り、現実という名の冷たい夜の海に、力強く漕ぎ出す勇気である。世界が日本に求めているのは、孤立した光ではなく、共に嵐に立ち向かう一艘の船としての意志なのだ。
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