豊かさの統計と、空腹に震える食卓の乖離
朝、コンビニの棚に並ぶおにぎりの数十円の値上げに肩を落とし、冬の寒さに耐えながらエアコンのスイッチを入れるのを躊躇する。残業代で辛うじて帳尻を合わせた給与袋は、社会保険料と消費税という名の目に見えない手によって、瞬く間に痩せ細っていく。これが、かつて「一億総中流」と謳われたこの国の現在地だ。
しかし、奇妙なデータがある。日本の「対外純資産」は30年以上にわたり世界一の座に君臨し続けている。数字の上では、日本は世界で最も他国に金を貸している「最強の金主」なのだ。ならば、なぜ私たちの生活はこうも苦しいのか。なぜ老後の不安に怯え、道路は傷み、若者は未来を諦めているのか。私たちは、莫大な富を保有しながら、その日暮らしの困窮に喘ぐという、世界でも類を見ない巨大な矛盾の中に生きている。
なぜ私たちは報われないのか? その答えは、この国の構造が「異常な物語」に支配されているからに他ならない。
ボロアパートの大家が隠し持つ、換金不可能な札束
想像してみてほしい。あなたの隣に住む、一人の奇妙な男のことを。
その男は、築50年の風呂もないボロアパートの一室に住んでいる。壁は薄く、雨漏りがし、冬は隙間風が容赦なく体温を奪う。男は毎日、見切り品のパンをかじり、ボロボロの服を着て、寒さに震えながら暮らしている。周囲の住民は皆、彼のことを「哀れな貧乏人」だと思っている。
しかし、ある日、男の部屋の押し入れから一冊の通帳が見つかる。そこには、天文学的な数字の残高が記されていた。実はこの男、近隣の豪邸に住むセレブたちに、莫大な額の金を貸し付けている「超巨大な金主」だったのである。
「そんなに金があるなら、まず自分のアパートを直せばいいじゃないか。風呂を作り、もっとマシなものを食べればいい」と誰もが助言するだろう。しかし、男は震えながら首を振る。
「いや、貸した金は返してくれとは言えないんだ。向こうの機嫌を損ねたら怖いし、それに、この貸し付け証明書(債券)は、私のステータスなんだ。これを持っているから、私は『金持ち』として認められているんだ……」
男は、貸した金が利子を生んでいることには満足している。だが、その利子でさえも、さらなる貸し付けに回すか、相手の言い値で高い不用品を売りつけられる支払いに消えていく。自分の部屋の雨漏りを直すための「現金」は、男の手元には一円も残っていない。彼は、金のなる木という名の幻想を抱きしめたまま、自身の命を削り続けているのである。
政治的隷属と化した「世界最強の債権」という呪縛
この滑稽で悲劇的な「ボロアパートの大家」こそが、日本という国の真の姿である。
米国債という名の「返却不要の寄付金」
私たちが必死に働き、輸出で稼ぎ出した富の多くは、米国債を中心とする対外資産へと姿を変えている。これが「対外純資産世界一」の正体だ。しかし、この資産は、一般的なビジネスにおける「貸借」とは意味が異なる。
現実問題として、日本が保有する膨大な米国債を一斉に売却し、日本円に戻して国内のインフラ整備や社会保障に充てることは、現在の国際政治・軍事バランスの中では「タブー」とされている。売却を匂わせた政治家が即座に失脚し、あるいは不審な死を遂げるという陰謀論めいた噂が絶えないほど、この「貸し金」には強力な政治的ロックがかかっている。つまり、額面上の富は存在するが、主権国家としてそれを自由に使う自由を私たちは奪われているのだ。
国内の「修繕」を拒む自虐的な緊縮財政
一方で、国内に目を向ければ、政府は「借金(国債)が大変だ」というプロパガンダを繰り返す。対外的に莫大な資産を保有している事実には蓋をし、国民に対しては「金がないから我慢しろ」と説く。
その結果、何が起きているか。ボロアパートの壁を直す(教育への投資、科学技術への支援)ことも、隙間風を防ぐ(社会保障の充実、賃金の底上げ)ことも、「財源がない」の一言で切り捨てられる。世界一の金貸しが、自分の子供たちの給食費を削り、自分自身の病気を放置している。これが、私たちが直面している異常事態の正体である。
誰が得をしているのか。それは、日本の富を低コストで吸い上げ続ける発行体と、その構造を維持することで自らの地位を保とうとする、この国の「番頭」たちである。
「お金がない」という嘘を、今日で終わりにしよう
私たちは、そろそろ認めなければならない。この国に「お金がない」というのは、真っ赤な嘘である。
正確に言えば、日本には「使えるお金」がないのではなく、「使えない、あるいは回収できないという政治的な縛り」に自ら首を絞められているだけなのだ。
対外資産という名の数字の山を誇りながら、国民が困窮し、国力が衰退していくのを放置するのは、本末転倒の極みである。何のための富か。何のための国家か。世界一の債権国という称号が、国民の幸福の上に成り立っていないのであれば、それは単なる「搾取の証書」に過ぎない。
私たちが真に求めるべきは、単なる経済成長ではない。積み上げた富を、自分たちの生活という「足元」に還流させるための「構造の見直し」と、それを阻む国際的な不条理にノーを突きつける「政治的な意思」である。
「お金があるのに使えない」という異常な檻から抜け出さない限り、私たちは永遠に、世界一リッチなボロアパートの住人のまま、静かに朽ちていくことになるだろう。視点を変えよ。私たちは決して貧しくはない。ただ、自分たちの財布の鍵を、他人に預けてしまっているだけなのだ。
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