「親のクレカ」で世界に奢る政治家たち――国民という名のATMが枯渇する日

満たされぬ腹と、見せしめの節約

朝、スマートフォンのアラームで重い目を開ける。テレビから流れるニュースは、またしても物価の高騰を伝えている。スーパーの卵は、かつての倍近い値段になり、電気代の請求書を見るたびに溜息が漏れる。

私たちはいつから、これほどまでに「慎ましく」生きることを強要されるようになったのだろうか。賃金は上がらず、社会保険料という名の「見えない税金」は静かに、しかし確実に私たちの手取りを侵食していく。それに対する政府の答えは、常に同じだ。「財源がない」「少子高齢化の荒波を乗り切るためには、国民の痛みが必要だ」と。

私たちは、その言葉を真実だと思い込まされてきた。国家という大きな船が沈まないために、乗組員である国民がベルトを締め直すのは当然の義務なのだと。しかし、ふと窓の外を見たとき、私たちは言いようのない違和感に襲われる。家の中でこれほどまでに爪に火を灯す生活を強えられているというのに、窓の向こう側にいる「家長」は、見たこともないような札束を、他人のためにばら撒いているからだ。

なぜ、私たちはこれほどまでに報われないのか。その答えは、経済学の難解な数式の中にではなく、ある「不条理な家庭」の構図の中に隠されている。

豪華客船の甲板で「奢り」続ける見栄っ張りな息子

想像してみてほしい。ある邸宅の食卓を。テーブルの上には、冷めた薄い粥と、一切れの漬物。子供たちは腹を空かせ、穴の空いた靴下を何度も繕いながら、静かに耐えている。そこへ、父親が帰宅する。子供たちが「お腹が空いたよ」「服を買ってほしい」と縋り付くと、父親は冷酷な眼差しでこう言い放つ。「我が家には金がない。今は我慢の時だ。お前たちが贅沢を言うのは、甘えでしかない」

しかし、夜が更けた頃、この父親は家を抜け出し、華やかな社交界へと繰り出していく。彼はそこで、自分のものでもない「魔法のカード」を懐から取り出す。それは、家で飢えている子供たちが将来必死で働いて返さなければならない借金、あるいは子供たちの食費を削って捻出した、血と汗の結晶である「家族の貯金」に紐付いたクレジットカードだ。

父親は、周囲の友人たち――他国の有力者たち――に対して、豪放磊落に振る舞う。「困っているのかい? 遠慮することはない、ここは私が持つよ」と、気前よく数千億、数兆という単位の支援を約束する。周囲からの賞賛の声。「あなたはなんて太っ腹なんだ」「素晴らしいリーダーだ」。その称賛を浴びる瞬間の快感のために、彼は財布の紐を緩め続ける。

彼が奢っているのは、自分の金ではない。家で震えている子供たちの未来そのものだ。彼は、外では「聖人君子」のような顔をして慈悲を垂れ流すが、一歩家に入れば、弱り切った家族をさらに搾り取ろうとする。この不条理な二面性こそが、私たちが直面している現実の縮図である。

構造的な「内弁慶」と戦略なきバラマキの正体

この比喩が指し示す現実、それが「バラマキ外交」と呼ばれる現状である。

「気前の良い支援」の裏にある冷徹な計算

政府が海外に対して行う巨額の政府開発援助(ODA)や、国際会議のたびに表明される兆単位の支援。それ自体がすべて悪だとは言わない。国際社会での発言力を高め、国益を確保するための投資という側面はあるだろう。

しかし、問題はその「優先順位」と「出処」だ。国内では、非正規雇用の増大、教育格差、崩壊寸前の医療体制といった課題が山積している。それらに対しては「自助」を説き、「痛みを分かち合え」と冷淡に突き放す一方で、海外での「顔色」を伺うための支援には、驚くほどの手際の良さで予算を計上する。これはまさに、家族を犠牲にして他人に奢る「見栄っ張りな家長」の姿そのものではないか。

構造的な病巣――誰がこの茶番で得をするのか

なぜ、この構造は維持されるのか。それは、この「バラマキ」が政治家にとって極めて効率の良い「自己演出」の道具だからだ。

国内の諸問題を解決するには、利害関係の調整や、泥臭い政策立案、そして長い時間が必要になる。しかも、成果が出ても国民からは当然だと思われ、感謝の言葉は少ない。対して、海外への支援表明は一瞬で終わる。国際会議の壇上で、華々しく数字を発表し、他国の首脳と握手を交わす。その姿は「国際的な指導者」としてメディアに映し出される。国内の複雑な問題から目を背け、外の世界で「賞賛」を買い取る方が、彼らにとっては手っ取り早い政治的実績になるのだ。

私たちは、この「内弁慶の外地蔵」というべき構造によって、二重に搾取されている。一つは、現在支払っている血税として。もう一つは、将来の世代が背負わされる借金として。

国民はATMではない、尊厳ある主権者だ

私たちは、この不条理を「仕方がない」という言葉で片付けてはならない。政府の本分とは、他国から拍手喝采を浴びることではなく、その地に住む国民の生活を守り、未来への不安を取り除くことにあるはずだ。家計が火の車であるにもかかわらず、外で「いい顔」をして散財する家長を、誰が信頼できるだろうか。

「内弁慶の外地蔵」。この言葉がこれほどまでに日本の現状を射抜いている事実に、私たちは戦慄すべきだ。国民は、政治家の虚栄心を満たすためのキャッシュカードでもなければ、無限に金が湧き出るATMでもない。

私たちが今の閉塞感を打破するために必要なのは、謙虚な節約の美徳ではない。「自分たちの金が、自分たちのために使われないのはおかしい」という、極めて真っ当な怒りである。

まずは、その「魔法のカード」の使用履歴を厳しくチェックすることから始めよう。外地蔵たちが振り撒く微笑みの裏で、国内の家庭からどれだけのパンが奪われているのかを直視するのだ。私たちは、自分たちの人生を、政治家の「見栄」という名の祭壇に捧げるために生きているのではないのだから。

コメント

この記事へのコメントはありません。

最近の記事
おすすめ記事1
PAGE TOP