「言葉の霧吹き」が奪い去る思考の解像度:なぜ私たちは「カタカナ語」に煙に巻かれるのか

意味を剥ぎ取られた言葉たちが、私たちの生活を侵食する

朝、ニュースを眺めるだけで、私たちは名状しがたい疲労感に襲われる。画面の向こう側で語られるのは、私たちの生活に直結するはずの「痛み」であるはずなのに、そこで飛び交う言葉は、まるでどこか遠い異国の、あるいは架空の物語の用語のように響くからだ。

「賃金が上がらない」「物価だけが高騰する」「将来の保障が見えない」。そうした切実な訴えは、いつの間にか「リスキリング」や「インフレ・ターゲティング」、「サステナビリティ」といった滑らかな音の響きの中に吸い込まれ、霧散していく。私たちは確かに苦しい。しかし、その苦しさを語ろうとするたびに、用意された専門用語という「壁」に突き当たり、自分の感情が公式な議論から疎外されているような感覚に陥るのだ。

なぜ、私たちはこれほどまでに見当違いな「納得感のない言葉」の中に放置されているのか。なぜ、言葉が増えれば増えるほど、私たちの真実の姿は見えにくくなるのか。その背後には、意識的に構築された高度な「思考停止のメカニズム」が潜んでいる。

五里霧中の迷宮:視界を奪う銀色の飛沫

想像してみてほしい。あなたは今、険しい山の切り立った崖道を歩いている。足元は崩れやすく、一歩間違えれば深い谷底へと転落するかもしれない。あなたは恐怖し、自分の現在地を確かめようと必死に目を凝らす。

ところが、その崖の向こう側、安全な展望台に立つ者たちが、あなたに向かってある装置を起動させる。それは「霧吹き」だ。

シュッ、と微細な水滴が空気中に放たれる。最初は心地よい涼しささえ感じたかもしれない。しかし、霧は瞬く間にあなたの視界を白く塗りつぶしていく。右が谷なのか、左が道なのか。目の前にあるのは岩なのか、それともまやかしなのか。霧の中では、距離感も、色彩も、本質的な「剥き出しの恐怖」も、すべてが均一な灰色の中に溶けていく。

あなたは叫ぶ。「危ないじゃないか!道が見えない!」と。すると展望台の住人たちは、穏やかな声でこう答える。「いいえ、これは霧ではありません。視覚情報を最適化するための『大気流動コンディショニング』です。あなたが不安を感じているのは、セルフ・レジリエンスが不足しているからに他なりません」

彼らは決して、あなたを突き落としたとは言わない。ただ、あなたが自分の置かれた状況を正確に「見る」ことを、優しい手つきで、徹底的に妨害しているのだ。霧の中で足を踏み外したとき、あなたはそれを自分の不注意だと思い込まされる。霧を吹いた者の責任を問うという発想自体が、視界とともに奪われてしまうのだ。

「言葉の霧吹き」という名の洗練された暴力

この不気味な霧の正体こそが、現代日本を覆う「カタカナ公用用語」や「霞ヶ関文学」と呼ばれるものだ。

「解雇」という血の匂いを消す「労働市場の流動化」

例えば、「解雇規制の緩和」という議論がある。これは本来、労働者が生活の糧を突然失い、明日からの住まいや食事に困窮するかもしれないという、極めて生々しく血の匂いのする事態を指している。しかし、これを「労働市場の流動化」と言い換えた瞬間、物語は一変する。

「流動化」という言葉には、澱んだ水がさらさらと流れ始めるような、清潔でポジティブなイメージがまとわりつく。そこには、クビを宣告されて立ち尽くす労働者の姿も、泣き崩れる家族の顔も存在しない。ただ「マクロ経済におけるリソースの最適配置」という無機質なパズル遊びがあるだけだ。言葉に霧を吹くことで、彼らは政策がもたらす「個人の痛み」を完全に漂白することに成功している。

構造的な無関心を製造するメカニズム

なぜ、このような言い換えが執拗に行われるのか。それは、この国の意思決定層にとって「国民に本質を理解されること」こそが最大の政治的リスクだからだ。

増税を「負担の適正化」と言い、社会保障のカットを「効率的な給付の実現」と呼ぶ。これらの言葉に共通するのは、聞き手の頭の中に「具体的なイメージ」を結ばせないという一点に集約される。言葉の定義をわざと曖昧にし、カタカナの衣を被せることで、私たちは批判の対象を特定できなくなる。怒りの矛先をどこに向けていいか分からなくなり、最終的には「何だか難しい話だ」と匙を投げてしまう。

この「匙を投げる」状態こそが、権力者の狙い通りなのだ。意味を理解させないこと。それ自体が、彼らの既得権益を守るための、最強かつ最安価な「防御壁」として機能している。

結論:霧を払い、不条理を「剥き出し」にする勇気

私たちは今、この銀色の霧を自らの手で振り払わなければならない。

相手が「アジェンダ」と言えば、それは「自分たちの都合のいい予定表」ではないかと疑え。「エビデンス」と言えば、それは「都合よく切り取られた数字」ではないかと問い直せ。「ダイバーシティ」という耳当たりのいい言葉の影で、誰かが安く使い倒されていないかを直視せよ。

「言葉の霧吹き」は、私たちの思考能力を奪うための麻酔である。その麻酔に抗う唯一の方法は、霧の中に隠された「実体」を、泥臭い日本語で、自分たちの生活に引き寄せて語り直すことだ。

彼らが「流動化」と呼ぶものを、私たちは「解雇」と呼び直さなければならない。彼らが「適正化」と呼ぶものを、私たちは「搾取」と呼び直さなければならない。言葉の意味を、エリートたちの手から奪い返せ。

意味を理解させないことこそが、支配の極意である。 ならば、その意味を無理やりにでも理解し、言語化し、白日の下に晒すことこそが、不条理な社会構造に対する最大の反逆となるのだ。霧が晴れた後に見える景色がどれほど残酷なものであっても、私たちは目を開け続け、その不条理を直視し続けなければならない。

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