少子化対策という名の「雨漏り」対応:なぜ私たちは、腐りゆく家の中でバケツを並べ続けるのか

降りしきる雨と、足元を濡らす冷たい水たまり

朝、目が覚めて最初に感じるのは、湿った空気の重みだ。給与明細を眺めれば、額面こそ変わらずとも、社会保険料や物価という名の「目に見えない税」が、じわじわと私たちの生活を侵食している。若者は将来を語ることを禁じられたかのように口を噤み、現役世代は終わりのない労働という名の「排水作業」に追われている。

「少子化対策」や「子育て支援」という言葉がニュースで踊らない日はない。国は新しい手当てを創設し、数パーセントのポイント還元や、微々たる補助金を積み上げる。しかし、私たちの心に宿る「この先、本当に大丈夫なのだろうか」という根源的な冷え込みは、一向に解消される気配がない。むしろ、対策が発表されるたびに、その場しのぎの虚しさが募るばかりだ。

なぜ、これほどの予算が投じられ、議論が繰り返されているにもかかわらず、私たちは常に「手遅れ」の感覚の中で生きなければならないのか。その答えは、私たちが住まわされている「家」の惨状を見れば明らかになる。

出口なき浸水:バケツの迷宮に囚われた住人たち

想像してみてほしい。あなたは、ある古びた屋敷の住人だ。外は激しい豪雨。屋根には無数の亀裂が入り、天井からは絶え間なく雨水が滴り落ちている。畳は水を吸い、部屋中にカビの匂いが立ち込めている。このままでは、柱が腐り、家全体が崩壊するのは時間の問題だ。

しかし、この家の家主が提案する解決策は、驚くべきものだった。彼は屋根を直そうとはしない。その代わりに、彼は新しい「バケツ」を配り歩いているのだ。

「いいか、水が漏れてくるなら、このバケツで受ければいい。ほら、最新式の、少し容量の大きいバケツを用意したぞ。これで床が濡れるのは防げるはずだ」

住人たちは最初、そのバケツをありがたく受け取った。だが、雨は一向に止まない。一箇所の漏水をバケツで受ければ、別の場所から新たな雫が落ちる。家主はそのたびに、さらに新しいバケツを持ち込んでくる。小さなカップ、プラスチックの桶、時には豪華な装飾が施された金色のボウル。

気がつけば、部屋の床はバケツで埋め尽くされていた。住人たちは、自分たちがどこに足を置けばいいのかさえ分からなくなっている。バケツを跨ぎ、避けながら歩くことに全神経を使い、もはや窓の外を眺めたり、家族と食卓を囲んだりする余裕などない。さらに悪いことに、大量のバケツに溜まった水は重く、床板を歪ませ、基礎をさらに弱めていく。家主は自慢げに「これほど多くのバケツを用意したのは、わが家が初めてだ」と胸を張るが、天井の穴は刻一刻と広がっている。

湿った風が吹き抜け、家がギギ、と悲鳴を上げる。住人たちは気づき始めている。どれほどバケツを増やしたところで、頭上の空が見えている限り、この絶望は終わらないのだということに。

「対症療法」という名の、あまりに不誠実な逃避

蛇口を締めず、溢れた水を拭き取る愚行

この不条理な光景こそが、現在の日本の「少子化対策」の正体である。「児童手当の拡充」「所得制限の撤廃」「出産一時金の増額」――これらはすべて、床に置かれた「バケツ」に過ぎない。もちろん、今まさに水浸しの床で途方に暮れている人々にとって、バケツは一時的な助けにはなるだろう。しかし、問題の本質は「なぜ水が漏れているのか(なぜ将来に希望が持てず、子供を産み育てることがリスクだと感じるのか)」という屋根の修繕、すなわち構造改革にあるはずだ。

構造的な病巣と、受益者の不在

なぜ、政治は「屋根の修繕」に手をつけないのか。それは、屋根を直すには多大なコストと、既存の構造を一度解体する痛みを伴うからだ。労働市場の二極化、硬直した教育システム、そして何より、現役世代の負担で高齢者を支え続けるという「持続不可能な社会設計」。これらに切り込むことは、多くの利害関係者を敵に回すことを意味する。

一方で、バケツ(補助金や手当)を配ることは、政治家にとって「仕事をしているフリ」をするのに最も都合がいい。予算を計上し、現金を配る。その瞬間、有権者には何かが還元されたような錯覚が生まれるからだ。しかし、そのバケツの購入資金はどこから出ているのか。それは、この浸水しつつある家の「修繕積立金」を切り崩し、あるいは未来の住人に借金を背負わせることで調達されている。

バケツが増えれば増えるほど、行政コストは膨らみ、制度は複雑化し、社会の機動力は奪われていく。まさに「バケツが増えすぎて足の踏み場がなくなり、結局家が腐る」という最悪のシナリオが、現実のものとして進行しているのだ。

「金配り」という幻想を捨て、屋根を直す勇気を持て

私たちは、いつまでバケツの形や容量に一喜一憂し続けるのだろうか。「あと数万円の手当が増えれば、子供を持とうと思えるか?」という問いに対し、多くの国民が首を横に振るのは、彼らが贅沢を望んでいるからではない。頭上に開いた巨大な穴――雇用不安、硬直した社会、右肩下がりの経済――という「将来不安」が解消されない限り、どれほどの現金を手にしても、それは沈みゆく船の上で渡されるチップに等しいからだ。

「金配り」だけでは、将来の不安という根本原因は消えない。

今、求められているのは、バケツの増設ではない。既存の利権や古びた社会構造という「腐った屋根」を一度剥がし、設計図から書き直す覚悟である。働き方に多様性を保障し、失敗しても再挑戦できるセーフティネットを再構築し、若者が「この国で生きることは、リスクではなく投資である」と確信できる環境を作り出すこと。それこそが、唯一の「修繕」である。

足元のバケツの水を捨て、顔を上げよう。私たちが向き合うべきは、床に溜まった水たまりではなく、雨音が響き渡る天井の向こう側にあるはずだ。家が完全に朽ち果てる前に、私たちはこの不条理な「バケツ・ゲーム」を終わらせなければならない。

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