壊れたレコードと向き合う絶望:あなたの言葉が届かない理由
朝の通勤電車、あるいは深夜のキッチンで、ふとした瞬間に喉の奥に広がる苦い「砂」のような感覚。それを私たちは「政治への無関心」と呼んで片付けてはいないだろうか。しかし、その正体は無関心などではない。言葉が通じない相手に叫び続けることへの、生物としての「正当な疲弊」である。
私たちは毎日、誠実に言葉を交わしている。上司の叱責に答え、家族の悩みに耳を傾け、隣人と挨拶を交わす。そこには「問い」に対して「答え」が返ってくるという、最低限の信頼関係が前提として存在している。だが、テレビの向こう側、この国の意思決定を司る中枢では、その前提が音を立てて崩れ去っている。
「生活は苦しいのか」と問えば、「経済指標の推移を注視している」と返る。「責任を認めるのか」と問えば、「適切に判断してきたと認識している」と突き放される。この、噛み合わない歯車が空転するような不快感。なぜ私たちは、日本語を話しているはずの相手と、これほどまでに対話が不可能なのか。その裏側にある、巧みに設計された「断絶の構造」を暴く必要がある。
意味の通じないバベルの塔:翻訳機を破壊された街の寓話
想像してみてほしい。あなたは今、深い霧に包まれた見知らぬ街の役所に立っている。窓口の男に、あなたは切実にこう訴える。「お腹が空いて死にそうです。パンを一枚いただけませんか」。
男は冷淡な表情のまま、分厚いマニュアルをめくり、こう答える。「当窓口において、あなたが仰る『パン』という語の定義は、現在検討中であります。また、私が昨日食べたのは『米』であり、『パン』は食べておりません。したがって、あなたの要求には一貫性が欠如していると判断せざるを得ません」
あなたは困惑し、言い方を変える。「米でもいい、何でもいいから食べさせてくれ」すると男は、薄笑いさえ浮かべてこう告げる。「『何でもいい』という言葉は広範な意味を含み、具体性に欠けます。手続きの透明性を確保するため、まずは『食べる』という行為の法的根拠を精査するための第三者委員会を立ち上げる必要があります」
空腹で震えるあなたの前で、男は淡々と、しかし膨大な量の言葉を吐き出し続ける。その言葉は、確かに日本語の音をしている。文法も正しい。しかし、あなたの「飢え」という切実な現実に、その言葉は一ミリも触れてこない。男の目的は、あなたを救うことではない。あなたを疲れさせ、諦めさせ、その場から立ち去らせること。それだけなのだ。
この街では、言葉は情報を伝えるためのツールではない。相手の問いを叩き落とし、時間を稼ぎ、自己を正当化するための「防壁」としてのみ機能している。情報のキャッチボールは、ただの「石の投げ合い」へと変貌している。
ご飯論法という名の「意味の収奪」
会話のフリをした徹底的な情報遮断
この寓話における役所の男の振る舞いこそが、私たちが現実の国会答弁で目撃している「ご飯論法」の正体である。「朝ごはんは食べたか?」という問いに対し、パンを食べたにもかかわらず「(米の)飯は食べていない」と答える。嘘はついていない、と彼らは強弁する。しかし、そこには「朝食を摂ったか否か」という問う側の意図に対する、意図的な裏切りがある。
これは単なる誤魔化しではない。言葉の定義を勝手に書き換え、相手と共有しているはずの土俵を一方的に作り直す「概念の横領」である。Aを聞いているのに、彼らは自分たちに都合の良いBという言語空間に逃げ込み、Cという無意味な記号を吐き出す。そこでは会話が成立している「フリ」だけが維持され、実質的な情報は一滴も漏れ出さないよう制御されている。
責任を蒸発させる高等テクニック
なぜ、このような歪なコミュニケーションが維持されるのか。それは、この手法が「責任を回避する」上で極めて効率的だからである。本来、政治とは言葉による責任の引き受けである。しかし、言葉の意味を曖昧にし、あるいは恣意的に変質させれば、「何を言っても、後からどうとでも釈明できる」という無敵の状態が完成する。「記憶にない」「誤解を招いたのなら遺憾である」といった定型句は、言葉の重みを極限まで希釈し、責任という概念そのものを蒸発させてしまう。
この構造で得をしているのは、権力を握り、説明責任から逃れたい層に他ならない。彼らにとって、国民との対話は「リスク」でしかない。だからこそ、翻訳機を通さない会話を続け、国民を「理解不能の森」へと迷い込ませる。国民が考えることを放棄し、「政治は何を言っているか分からないから関わりたくない」と目を背けること――それこそが、彼らの狙う最大の成果なのだ。
奪われた「共鳴」を取り戻すために
言葉が死ぬとき、民主主義もまた死ぬ。問う側と答える側が、同じ言葉を同じ意味で共有できない社会において、公的な議論は成立しない。それは単なる「音」の応酬であり、権力者による一方的な呪文の朗読に過ぎない。
私たちが対峙すべきは、個別の不祥事や失政だけではない。それらを隠蔽し、正当化するために使われる「言葉の汚染」そのものに立ち向かわなければならない。「ご飯論法」を、知的で巧妙なテクニックであるかのように扱ってはならない。それは対話を拒絶し、他者を、そして社会の論理を破壊する極めて野蛮な行為である。
私たちは、彼らが勝手に書き換えた辞書を突き返さなければならない。「それは答えになっていない」と、何度でも、言葉の定義が正常化するまで突きつけ続ける必要がある。
核心はここにある。言葉の定義を勝手に変えて、責任を回避する高等テクニックを許してはならない。彼らが「Bの言語」で煙に巻こうとするなら、私たちは「Aの事実」を引きずり出し、彼らの不誠実さを白日の下に晒し続けること。沈黙は、彼らの「意味の収奪」への加担を意味する。私たちが自分たちの言葉に誇りと重みを取り戻すこと。その一歩こそが、この窒息しそうな社会の風通しを良くする唯一の手段なのだ。
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