鳥カゴから出る勇気よりも「飛ばない礼儀」が称賛される——なぜ日本の「自由」はこれほどまでに息苦しいのか

「自由に生きなさい」という言葉に潜む、冷徹な呪縛

私たちは、子供の頃から「自由」であることの素晴らしさを教え込まれてきた。民主主義国家に生まれ、職業選択の自由があり、思想の自由が保証されている。しかし、ふとした瞬間に、胸を締め付けられるような閉塞感を感じることはないだろうか。

朝、満員電車で見かける、死んだ魚のような目をした人々。職場で「空気を読む」ことに全神経を尖らせ、本音を飲み込む日々。SNSで誰かの不用意な一言が袋叩きに遭い、炎上し、社会的に抹殺される光景。これらはすべて、私たちが享受しているはずの「自由」の実態が、実は極めて限定的で、条件付きのものであることを物語っている。

「やりたいことをやりなさい」と背中を押される一方で、一歩でも平均的なレールから外れれば、冷ややかな視線と自己責任の追求が待っている。私たちは、目に見えない境界線の内側でだけ踊ることを許された、いわば「許可制の自由」の中に生きているのだ。なぜ、どれほど努力しても、この拭いきれない「不自由さ」から逃れられないのだろうか。

金色に塗られた境界線と、羽ばたきを忘れた鳥たち

想像してみてほしい。あなたは、広大な庭園の中に置かれた、巨大で豪華な鳥カゴの中に住む鳥だ。

カゴの中には、清潔な水と、毎日決まった時間に配られるエサがある。止まり木は磨かれ、仲間たちも皆、美しい羽を整えてそこに座っている。カゴの主(あるじ)は優しく微笑み、こう告げる。「このカゴの中なら、どこへ飛んでもいい。お前の自由だ」と。

あなたは最初、喜んで羽を広げる。右へ左へ、あるいは高い止まり木へと飛び移る。それは確かに「自由」な感覚を伴うものだ。しかし、ある時、あなたはカゴの外に広がる、果てしない青空に目を奪われる。そこには境界線などなく、風が吹き抜け、未知の景色が果てしなく続いている。

あなたは、カゴの網目にくちばしをかけ、外へ出ようと試みる。すると、隣にいた仲間の鳥が、鋭い声で鳴いた。「何をしているんだ。外は危険だぞ。ここなら安全に暮らせる。外に出ようとするなんて、主に対する、そして私たちに対する『わがまま』だ」

仲間の目は、恐怖と軽蔑に満ちている。カゴの網を揺らすあなたの羽ばたきが、カゴ全体を振動させ、彼らの平穏を乱すからだ。やがて、他の鳥たちも一斉にあなたを突き始める。「身勝手な振る舞いはやめろ」「調和を乱すな」「恩知らずめ」。

カゴの中には、厳格で沈黙のルールが支配している。「飛んでもいいが、カゴを揺らしてはいけない」「主が定めた広さ以上に羽を広げてはいけない」。あなたは気づく。この場所で求められているのは「飛ぶこと」ではなく、「飛ばない礼儀をわきまえること」だったのだと。

「世間体」という名のカゴと、同調圧力の正体

この残酷な寓話は、現代日本における「校則」や「職場での同調圧力」そのものである。

「わがまま」というラベリングの暴力

私たちが直面する「限定的自由」は、常に「世間体」という名の網に囲われている。就職活動におけるリクルートスーツの群れ、学校での理不尽な校則、過労死するまで働き続ける「責任感」という名の呪い。これらは、カゴから出ようとする鳥を「わがまま」として攻撃するメカニズムの現実的な現れである。

「自分らしく生きたい」と願う個人に対し、社会は「親に迷惑をかけるな」「会社の迷惑を考えろ」という言葉を突きつける。ここでは、個人の権利や自由よりも、集団の波風を立てないこと、すなわち「迷惑をかけないこと」が最上位の美徳とされる。この構造において、自由とは「集団が許容する範囲内のレクリエーション」に格下げされているのだ。

構造的な停滞を望む「既得権益」としての沈黙

なぜ、この息苦しい構造は維持され続けるのか。それは、この「限定的自由」を維持することで、管理コストを最小化できる勢力が存在するからだ。

教育機関にとっては、個性を育てるよりも「扱いやすい労働力の部品」を育てる方が効率が良い。企業にとっては、権利を主張する個人よりも「空気を読んで自己犠牲を払う社員」の方が使い勝手が良い。そして、すでにカゴの中で自らの翼を折り、飛ばないことに最適化してしまった大衆にとって、自由に飛び回る他者の存在は、自分たちの耐え難い我慢を無価値にする「脅威」でしかない。

この不条理な連鎖が、「自ら鎖を愛する奴隷」を量産し続けている。管理する側も、管理される側も、カゴの外に出るリスクより、カゴの中での微睡み(まどろみ)を選んでいるのである。

自由の定義を「迷惑の先」に書き換える

私たちは、もう一度「自由」の定義を奪還しなければならない。

日本の社会構造が抱える最大の病巣は、自由を「許可されるもの」と勘違いしている点にある。本来、自由とは「他者に迷惑をかけない範囲」で許されるものではない。むしろ、新しい価値や生き方を提示しようとすれば、既存の秩序にとっては必ず「迷惑」や「異物」として映る。その摩擦を引き受けることこそが、自由を行使するということの本質だ。

「迷惑をかけない」ことが自由よりも上位にある社会は、死んでいるも同然である。誰にも迷惑をかけず、誰の感情も揺さぶらず、誰とも衝突しない人生。それは、カゴの止まり木で剥製になることを選ぶことに他ならない。

もし、あなたが今、カゴの網目に阻まれ、仲間の鳥たちからの攻撃に晒されているなら、それを誇りに思ってほしい。あなたの羽ばたきがカゴを揺らしているのは、あなたがまだ「生きている鳥」である証拠だ。

真の自由は、カゴの主から与えられるものではない。それは、冷笑や攻撃を恐れず、自分自身が「不快な存在」になることを引き受けた瞬間に、初めてその手に掴み取れるものである。カゴの中の安寧を捨て、冷たい風の吹く荒野へ。私たちは、「良い子」であることをやめた時、初めて重力から解放され、本当の空を飛ぶことができるのだ。

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