「遺憾の意」という名の共犯関係:なぜ国際社会は「いじめの傍観者」として振る舞うのか

鳴り止まない悲鳴と、沈黙の教室

朝、目が覚める。スマートフォンの画面を指先でなぞれば、そこには瓦礫の山と、泥にまみれて泣き叫ぶ人々の姿が映し出される。昨日まで平穏だった日常が、圧倒的な暴力によって蹂躙され、尊厳が土足で踏みにじられている。私たちはそれを見て、胸を痛め、一瞬の手を止め、「ひどいことだ」と呟く。しかし、その直後には指を滑らせ、今日のランチの店選びや、芸能人の不倫騒動へと意識を移していく。

この閉塞感の正体は何だろうか。私たちは日々、理不尽なニュースに触れながら、どこかで「自分には何もできない」という無力感を抱えている。あるいは、正論を吐きながらも実際には何も動かない組織やリーダーに対して、形にならない憤りを募らせている。なぜ、世界にはこれほどまでに洗練された「対話の場」があるはずなのに、目の前で行われている剥き出しの暴力一つ止められないのか。私たちが感じているこの徒労感は、今や地球規模の構造的な欠陥から生じている。

教室の隅で、教科書を握りしめる僕たちの正体

想像してみてほしい。そこは、ある中学校の教室だ。

教室内では、体が大きく、粗暴な一人の生徒が、小柄で大人しい生徒の机を蹴り飛ばしている。教科書は破かれ、持ち物は窓の外へ投げ捨てられる。被害者の生徒は、必死に助けを求めるような視線を周囲に送っている。しかし、クラスメートたちはどうだろうか。

彼らは決して「加勢」をしているわけではない。だが、誰一人として止める者もいない。皆、自分の机に向かい、必死に教科書を読み耽るフリをしている。心臓の鼓動は早まり、嫌な汗が背中を流れている。それでも、「やめろよ」という言葉は喉の奥で氷のように固まって出てこない。

そこへ、担任の教師が入ってくる。生徒たちは期待の眼差しを向けるが、教師の口から出たのは、耳を疑うような言葉だった。「みんな、仲良くしなさい。喧嘩はいけない。話し合いで解決するんだ」

暴力の真っ只中にいる生徒と、それを一方的に振るう生徒を同じ土俵に立たせ、教師は「中立」という名の安全圏から、抽象的な道徳を説き続ける。教師の本音は透けて見える。ここで加害者を厳しく叱責すれば、逆上した彼に自分も怪我をさせられるかもしれない。あるいは、親が出てきて面倒なことになるかもしれない。

「僕は中立だ。どちらの味方でもない。だから、僕の責任ではない」冷たい廊下の空気の中で、教師は心の中でそう自分に言い聞かせる。その間にも、教室の後ろでは、乾いた打撃音と啜り泣きが響き続けている。この「静かな地獄」こそが、私たちが生きている世界の縮図である。

「遺憾の意」という精巧な現実逃避

侵略を「喧嘩」にすり替えるレトリック

この教室の情景を、現代の国際情勢に翻訳してみよう。暴力を振るう生徒は「侵略国家」であり、教室内で沈黙する生徒や教師は「国連」や「事なかれ主義の諸国」だ。

国際社会で繰り返される「遺憾の意」や「最大限の懸念」という言葉。これらは、現実の暴力から目を逸らすために開発された、最も高度な政治的プログラミング言語に他ならない。一方が明確にルールを破り、他方の生存権を脅かしている状況において、「双方に自制を求める」という発言は、正義の追求ではなく、単なる「責任の放棄」である。

侵略という一方的な暴力を、まるで「価値観の相違による衝突」であるかのようにマイルドに描き直すことで、傍観者たちは自分の良心を痛めることなく、安全な椅子に座り続けることができるのだ。

なぜ「不作為」が称賛されるのか

この構造が維持される理由は明快だ。それは「保身」が最もコストパフォーマンスの良い選択肢だからである。

国際政治における正義の執行には、莫大なコストが伴う。経済制裁を行えば自国の経済も返り血を浴び、軍事的な介入をすれば自国民の血が流れる。だからこそ、各国の指導者たちは、正義よりも「明日も今の暮らしが続くこと」を優先する。

ここで巧妙なのは、その保身を「平和への配慮」や「中立性の維持」という美しいパッケージで包み隠す点だ。強行的な手段を批判し、「対話による解決」を強調することで、あたかも自分たちが最も理性的で文明的な存在であるかのように振る舞う。しかし、その「理性」によって救われるのは、被害者ではなく、自分たちの平穏な日常だけなのである。

「中立」という名の加担を終わらせるために

私たちは認めなければならない。圧倒的な力の差がある場所で「中立」を保つことは、実質的に強者の味方をすることと同じである。

いじめの現場で、見て見ぬふりをする傍観者は、加害者にとって最高の「理解者」だ。なぜなら、彼らが何もしないことで、加害者の暴力は「教室の既成事実」として承認されるからだ。国際社会も同じである。強権的な国家がルールを破ったとき、周辺国が「中東問題は複雑だ」「歴史的経緯がある」と煙に巻くたびに、暴力のハードルは下がっていく。

「中立」を装っているが、実質的には強者の味方をしている。この不都合な真実を直視することからしか、変化は始まらない。

私たちは、いつまでも「教室の隅で教科書を握りしめる子供」であってはならない。世界が発する「遺憾の意」の空虚さに気づき、それが誰を切り捨て、誰を保護しているのかを問い続ける必要がある。本当の平和とは、単に銃声が響いていない状態を指すのではない。不条理に対して「ノー」と叫ぶ者が、孤立せずに済む構造のことである。

目を閉じれば、世界は平和に見えるかもしれない。しかし、その暗闇の中で、誰かが今も殴られ続けている。その事実を無視して語られる「道徳」に、一体何の価値があるというのだろうか。

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