磨き上げられた機能不全という名の絶望
朝、満員電車に揺られ、死んだ魚のような目でスマートフォンを眺める群衆。オフィスに到着すれば、本質よりも形式を重んじる会議に時間を溶かし、忖度と調整の末に「何も決まらない」という結論を共有する。私たちはいつから、これほどまでに無力な存在になったのだろうか。
懸命に働き、ルールを遵守し、波風を立てぬよう生きてきた。それなのに、個人の幸福感は低空飛行を続け、国全体の競争力は坂道を転げ落ちるように衰退している。この拭いがたい徒労感の正体は何か。なぜ、真面目に努力を重ねる者ほど、出口のない閉塞感に窒息しそうになっているのか。
その答えは、私たちが受けてきた「教育」という名の加工プロセスにある。私たちは、自らの意思を育むことを禁じられ、誰かが決めた正解をなぞるだけの「鑑賞物」に仕立て上げられてきたのだ。
静寂に包まれた温室という名の拷問
想像してみてほしい。そこは、都会の喧騒から切り離された、静謐な趣のある日本庭園の片隅だ。そこには、数え切れないほどの小鉢に収められた「盆栽」が並んでいる。
あなたは、その中の一つの苗木として生まれる。本来、木というものは天に向かって自由に枝を伸ばし、深く土を穿ち、嵐に耐えるための強固な根を張る生命体であるはずだ。しかし、この庭園のルールは違う。管理人は鋭い鋏(はさみ)を手に、少しでも「型」からはみ出そうとする新芽を容赦なく摘み取る。
「余計なことは考えるな。この針金に従って曲がれ」「隣の鉢と同じ高さ、同じ角度でいろ」金属製の針金が、あなたの柔らかな幹に食い込む。鈍い痛みがあるが、声を上げることは許されない。美しさとは、耐えること、そして管理人の意図を完璧に体現することだと教え込まれる。
毎日のように化学肥料が与えられ、葉の表面は丁寧に磨かれる。外から見れば、その盆栽は非の打ち所がないほど整い、伝統美を体現しているように見えるだろう。しかし、その輝かしい緑色の裏側で、何が起きているか。
狭苦しい鉢の中で、根は行き場を失っている。呼吸を止められ、自ら栄養を探しに行く必要もない環境で、根は次第に黒ずみ、ヌルヌルとした不快な感触へと変わっていく。生命の源泉であるはずの根が腐っているのに、上部だけは針金で強制的に「美しい形」を保たされている。少し強い風が吹けば、あるいは誰かが軽く触れれば、この芸術品は根底から崩れ去るだろう。なぜなら、自分を支える力を、とっくの昔に奪い去られたからだ。
形式美の追求が招いた「根」の壊滅
この「根腐れした盆栽」という歪な風景こそ、日本の教育システムそのものである。
枝ぶりを整えることに狂奔する教室
日本の学校現場において、評価の対象となるのは常に「枝ぶり」である。美しく整列すること、決められた書式を墨守すること、そして何より、教師(管理人)が提示する正解という名の金型に自分を流し込むことだ。
テストの点数や内申点といった指標は、いわば盆栽の「見栄え」を測るコンテストに過ぎない。ここでは、独自の問いを立てる力や、常識を疑う深い思考といった「根」の成長は、むしろ管理を著しく困難にする邪魔者として扱われる。従順に針金に従う生徒が「優秀」とされ、個性を主張する生徒は「問題児」として矯正の対象となる。
その結果として生み出されるのは、見た目は極めて精緻で美しいが、土台がスカスカの「脆弱なエリート」たちである。
構造的な病巣と受益者
なぜ、この残酷なシステムは維持され続けるのか。それは、このシステムがかつての「工場モデル」の社会において、この上なく効率的だったからだ。
誰が決めたか分からないルールを疑わずに遂行し、単調な作業を正確にこなす「従順な兵士」を大量生産すること。それが、高度経済成長期の日本が求めた最適解だった。官僚組織や大企業のピラミッドにおいて、自ら根を張る必要はない。組織という巨大な「鉢」の中で、決められた形を保っていれば、給与という名の肥料が与えられたからだ。
この構造を維持することで得をするのは、変化を嫌う既得権益層である。自ら思考し、現状を打破しようとする若者は、彼らにとって体制を脅かすリスクでしかない。だからこそ、教育という名の土壌をわざと痩せさせ、根を張らせないようにコントロールし続けているのである。
従順な兵士の絶滅と、創造的破壊の必要性
しかし、もはや温室の壁は崩れ去った。私たちが直面しているのは、正解のない不確実な世界だ。そこでは、昨日までの美学であった「針金に従う能力」は何の役にも立たない。むしろ、針金に縛られ、根を腐らせた盆栽から順に、激動という名の嵐に飲み込まれていく。
「従順な兵士を作る教育は、創造的なイノベーターを殺す」
これが、私たちが直視しなければならない、この国の核心的な欠陥である。イノベーションとは、既存の型を破壊する行為であり、深く力強い思考という根からしか生まれない。どれほどドローンやAI、プログラミングといった現代的な「肥料」を外から与えたところで、受け取る側の根が腐っていれば、それは単なる枯れ木を装飾する儀式に終わる。
私たちは、自らを縛り付けている針金を自らの手で引きちぎらなければならない。窮屈な「教育という名の鉢」を割り、広大な大地に再び根を下ろす勇気を持つべきだ。形式的な美しさ、他人から与えられた正解、誰かが作ったルールに基づく評価。それらすべてを「根腐れを招く毒」として拒絶せよ。
美しく整っている必要はない。不格好でもいい。土を掴み、泥にまみれ、自分の力で栄養を吸い上げる「野生の思考」を取り戻すこと。それだけが、この根腐れした社会を生き延び、真の意味で「生きている」と言える唯一の方法なのである。
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