避難訓練という「ごっこ遊び」の果てに焼かれる国家:防衛論議に潜む致命的な虚構

鳴り響くサイレンと、空っぽの消火器という喜劇

朝、目を覚ましてニュースを眺めれば、そこには「平和」という名の、あまりにも薄氷の上に乗った日常が広がっている。私たちはどこかで気づいているはずだ。私たちの平穏を支えているはずの「安全保障」という概念が、いつの間にか中身のない空虚な「儀式」に成り下がっていることに。

生活費は高騰し、未来への不安は募るばかり。しかし、それ以上に恐ろしいのは、私たちが直面している危機に対して、この国が「ポーズ」だけで応えようとしている事実だ。何か事があれば誰かが守ってくれるだろう、あるいは話し合えば分かり合えるだろうという、根拠なき楽観。その閉塞感の正体は、私たちが「現実」から目を逸らし、心地よい「形だけの安心」の中に閉じこもっていることへの無意識の恐怖である。

なぜ、私たちはこれほどまでに報われない感覚を抱くのか。それは、私たちの命や生活を預かるはずの議論が、実効性を伴わない「避難訓練」のレベルで停滞しているからに他ならない。

炎の見えない場所で繰り返される「完璧な」避難ごっこ

想像してみてほしい。あなたは巨大なオフィスビルの、あるフロアに勤めている。そのビルでは、毎日のように「防火訓練」が行われている。

訓練の合図とともに、スピーカーからは厳かな声で指示が飛ぶ。「落ち着いて、列を乱さず、非常階段へ向かってください」。人々は整然と歩き、決められた場所で点呼を受ける。責任者は満足げに頷き、報告書に「異常なし、訓練は完璧であった」と記す。その光景だけを見れば、このビルは世界で最も安全な場所のように思えるだろう。

しかし、ふと壁際を見て、あなたは戦慄する。設置されている消火器の箱はどれも空っぽだ。ホースは朽ち果て、スプリンクラーの配管はどこにも繋がっていない。それどころか、消防署への通報手段すら確保されていない。あなたが指摘しようとすると、周囲の人間は不快そうに顔を歪める。「縁起でもない。訓練を完璧にこなしているのだから、火事など起きるはずがないだろう」と。

この世界では、「火事を防ぐための議論」と「実際に火を消すための装備」が完全に切り離されている。誰もが「避難の作法」には詳しいが、実際に炎が上がった時、誰がどの角から迫る火を、どの水圧で消し止めるのかについては、誰も語ろうとしない。

むしろ、彼らが熱心に準備しているのは、実際に火事になった時の「言い訳」だ。「我々は訓練通りに行動した。しかし、これほどの延焼は想定外だったのだ」煤にまみれ、崩れ落ちるビルの中で、彼らは最後まで「想定外でした」という台詞を完璧に演じるための練習を繰り返している。これこそが、この不条理な場所の正体である。

形式という名の「不作為」が招く構造的な自死

議論だけが完璧で、装備が伴わない現実

物語の中の「空っぽの消火器」は、現代日本における防衛論議そのものだ。私たちは憲法論争や平和の理念については、何十年もかけて世界一繊細な議論を積み重ねてきた。どの言葉が適切か、どのような解釈なら国民の感情を逆撫でしないか。その「作法」はもはや芸術の域に達している。

しかし、実社会を見渡せばどうか。現場の自衛官が直面している弾薬不足、老朽化した庁舎、そして有事の際に国民をどう避難させるかという法整備の空白。これらは、比喩の世界における「中身のない消火器」に他ならない。議論という名の訓練だけを繰り返し、実際的な消火能力(抑止力と法整備)を意図的に無視し続けているのだ。

なぜ「想定外」の準備ばかりが捗るのか

この構造によって利益を得ているのは、現状維持を至上命題とする既得権益層と、責任回避を本能とする官僚組織である。「真のリアリズム」に基づいた防衛議論は、痛みを伴う。コストもかかるし、周辺国との緊張も生むかもしれない。だからこそ、彼らは「形だけの平和主義」という隠れ蓑を利用する。

「平和を祈っている」「対話が必要だ」という美辞麗句は、実は「何もしないこと」への免罪符として機能している。実際に対策を講じて失敗すれば責任を問われるが、平和を唱えていて惨禍が起きれば、「想定外の悪意に襲われた」と言い逃れができるからだ。彼らにとって、国民の安全よりも「自分たちの無過失を証明する手続き」の方が重要なのである。

リアリズムの欠如した平和主義という名の猛毒

私たちは、いい加減に認めなければならない。「火事が起きてほしくない」と願うことと、「実際に火を消せること」は、全く別の次元の話である。前者はただの願望であり、後者こそが責任ある主権者が持つべきリアリズムだ。

訓練用のメガホンをいくら磨いても、火を消すことはできない。どれほど高邁な理想を語ろうとも、物理的な脅威に対して物理的な備えを欠いた国家は、他国の善意という不安定な天秤の上に、自国民の命を載せているに過ぎない。

「リアリズムの欠如した平和主義は、ただの願望に過ぎない。」

この言葉を、私たちは今、自らの生存戦略として再定義する必要がある。本当の安全とは、目を背けたい現実を直視し、泥臭く、時に非情なまでの合理性を持って備えることからしか生まれない。

「想定外でした」という謝罪会見の練習はやめよう。今すぐ空っぽの消火器の箱を開け、そこに現実という名の重石を詰め、実際に炎と戦える体制を整えるべきだ。私たちが守るべきは、「平和を守っているという自己満足のポーズ」ではなく、血の通った国民の、かけがえのない日常なのだから。

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