あなたの怒りは、誰に用意されたものか
朝、スマートフォンを開き、SNSのタイムラインを流し読みする。そこには誰かの失言、政治家の不祥事、あるいは特定の属性を持つ人々への糾弾が溢れ返っている。あなたはそれを見て、指先一つで「リポスト」や「いいね」を押し、怒りの言葉を付け加える。正義の鉄槌を下したような、得も言われぬ万能感と高揚感に包まれながら。
だが、少しだけ立ち止まって考えてみてほしい。あなたが今、激しい憤りとともに拡散したその「事実」は、本当に事実だろうか。
現代社会を覆っているのは、出口のない閉塞感と、絶え間ない枯渇感だ。真面目に働いても給料は上がらず、将来への不安だけが増幅していく。その鬱屈とした感情の行き場を探している私たちは、ネット上に転がっている「叩きやすい標的」に飛びつく。しかし、その標的そのものが、何百人もの手を経て形を変えた「偽物」であったとしたら。私たちは、実体のない影に向かって石を投げ続けているに過ぎないのではないか。
なぜ、私たちの言葉はこれほどまでに空虚に響き、社会は分断されていくのか。その答えは、現代の情報空間が「錆びついた伝言ゲーム」の舞台と化しているからに他ならない。
錆びついた伝言ゲーム:歪んだ情報の迷宮
想像してみてほしい。あなたは、霧の深い巨大な回廊に立っている。回廊には数千、数万の人々が列をなしており、その先頭にいる一人が、ある「言葉」を隣の者の耳に吹き込む。
最初の言葉は、極めて単純で、無色透明な事実だった。「昨夜、広場で林檎が一つ落ちた」。
しかし、二人目の耳に届く頃には、その言葉に微かな色がつく。「昨夜、広場で誰かが林檎を落とした」。三人目、四人目と伝わるにつれ、言葉は受信者の「願望」や「偏見」、そして「面白くしたいという下心」というフィルターを通過していく。
「あいつがわざと林檎を投げたらしいぞ」「いや、林檎ではなくて爆弾だったらしい」「犯人はあっちの村の人間だ」。
回廊の中ほどでは、もはや「林檎」の影も形もない。人々は「あっちの村の奴らが爆弾を投げ込んだ!」という恐ろしい物語を、震える声で隣に伝えている。回廊の終点近くにいるあなたは、その言葉を聞いてこう思う。「なんて許せないことだ! 私たちの平和を脅かす連中を排除しなければならない!」
あなたは、霧の向こう側にいる列の先頭まで歩いていき、自分の目で広場を確認しようとはしない。そんな時間はなく、何より他の大勢が同じことを言っているのだから、それが真実だと信じ込む方が遥かに容易だからだ。
回廊には、錆びついた鉄のような、鼻をつく悪臭が漂っている。それは、事実が腐敗し、人々の憎悪と結びついた時に放たれる情報の死臭だ。誰もが「正しいこと」を伝えているつもりでいながら、その実、誰もが真実を殺している。
「解釈」という名の暴力が事実を侵食する
誰一人として「元の言葉」を確認しない不条理
この錆びついた伝言ゲームは、比喩ではなく、私たちの日常そのものである。SNSでバズっているニュースの多くは、一次ソース(元の発言や一次資料)から驚くほど乖離している。
例えば、ある専門家が「現時点ではAという可能性も否定できないが、確率は極めて低い」と述べたとしよう。それがメディアの手に渡ると「Aの可能性を指摘」という見出しになり、SNSのインフルエンサーが拡散する頃には「Aがついに判明!」という断定に変わる。そして最後には、私たちがその「歪んだ結論」を基に、本来存在しない対立構造の中で罵り合っている。
悲劇的なのは、誰も「一次ソース」という列の先頭に戻ろうとしないことだ。リンク先に貼られた元記事を読み込む、あるいは公開されている議事録を確認する。そのわずか数分の手間を、私たちは「面倒」という理由で放棄し、代わりに誰かが加工した「怒りやすいパッケージ」を消費することを選ぶ。
なぜこの不条理な構造は維持されるのか
この価値観の劣化、情報の劣化によって利を得ているのは誰か。それは、あなたの「滞在時間」を金に変えるプラットフォーム企業であり、あなたの「怒り」を票に変える政治組織であり、あなたの「不安」をアクセス数に変えるメディアである。
彼らにとって、事実が正確である必要はない。むしろ、事実は無味乾燥であればあるほど都合が悪い。情報は歪み、尖り、感情を煽り立てる形に変質して初めて「経済価値」を持つ。私たちは、自らが真実を知る権利を、安易な感情的刺激という対価と引き換えに、これらのシステムに売り渡しているのだ。
この構造が強固なのは、供給側(メディア)だけでなく、需要側(読者)もまた、この「歪んだ伝言ゲーム」を望んでいるからだ。自分の信じたい結論を裏付けてくれる情報であれば、それがどれほど歪んでいようとも、私たちはそれを「真実」として受け入れてしまう。
核心:情報の一次ソースに当たらない「怠慢」が社会を殺す
私たちは今、岐路に立たされている。情報の氾濫に身を任せ、錆びついた伝言ゲームの末端で踊らされ続けるのか、それとも自らの足で回廊を遡り、真実の欠片を掴み取るのか。
情報の一次ソースに当たらない。この一見些細な「怠慢」こそが、現代における最大の知的な罪であり、社会を分断させる真犯人である。他人の解釈というフィルターを通さなければ世界を見られない人間は、本質的に自己の思考を他者に明け渡していると言わざるを得ない。
思考の主権を取り戻せ。
スマホの画面に映る、誰かが要約した「怒りの種」を鵜呑みにするな。その言葉がどこから来たのか、元の文脈は何だったのか。それを突き止める面倒な作業の中にしか、あなたの真の知性は宿らない。
「みんなが言っているから」は、あなたが思考を停止したことの言い訳にならない。錆びついた伝言ゲームをあなたのところで止めること。歪んだ情報を「正確に修正」して伝えるのではなく、一旦その列から離脱し、静寂の中で事実と対峙すること。
その勇気と、わずかな手間を惜しまない誠実さだけが、腐敗しきったこの情報社会を浄化する唯一の処方箋なのである。真実を知ることは、いつだって孤独で、面倒で、そして何よりも重い。だが、その重みを知る者だけが、分断された世界を繋ぎ直すことができるのだ。
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