牙を抜かれた番犬の末路:私たちが教えられた「平和」の正体と、静かに解体される国家の末路

閉塞感の正体:なぜ私たちは「怒り」を奪われたのか

私たちの日常は、どこか薄ら寒い空虚感に包まれている。給与は上がらず、増税の足音だけが重く響き、国力は衰退の一途をたどる。それでも、どこか他人事のように空を眺め、波風が立たないことだけを祈ってしまう。この「言いようのない無力感」の正体は何だろうか。

必死に働き、ルールを守り、誰にも迷惑をかけないように生きている。それなのに、私たちの生活は少しも豊かにならず、むしろ将来の希望は砂のように指の間からこぼれ落ちていく。なぜ私たちは、この理不尽な現状に対して声を上げ、自らを守ろうとしないのか。なぜ、牙を剥くべき時に「微笑む」ことしかできないのか。

それは私たちが怠慢だからではない。ましてや、能力が低いからでもない。私たちは、幼少期から緻密に設計された「ある教育」によって、自分の身を守るための本能を、魂の底から去勢されてしまったからである。

楽園という名の檻:吠えることを忘れた番犬の物語

想像してみてほしい。ある広大な屋敷に、一頭の犬が飼われている。

その犬は、先祖代々、屋敷を守る「番犬」としての誇りを持っていた。かつては、怪しい影が忍び寄れば鋭い牙を剥き、地の底から響くような声で吼え、侵入者を退けてきた。しかし、ある時を境に、屋敷の管理者は変わった。新しい管理者は、犬に対してこう囁き続けた。

「お前が牙を剥くのは醜いことだ。喉を鳴らして威嚇するのは野蛮の極みである。何があっても穏やかに、慈愛に満ちた目で来客を迎えなさい。それこそが高潔な番犬の証なのだ」

犬は、毎日与えられる微々たる餌と引き換えに、その言葉を信じ込んだ。管理者はさらに念を入れた。外科的な処置によって犬の牙を丸く削り取り、吠えようとすれば喉に激痛が走る首輪をはめたのである。

ある夜、屋敷に泥棒が押し入った。泥棒は犬の目の前で銀食器を盗み、家具を壊し、犬が大切にしていた寝床さえも奪っていった。しかし、犬は動けない。吠えようとすれば、首輪が「それは暴力への誘惑だ」と警告を発し、自分自身への嫌悪感が襲ってくる。それどころか、犬は泥棒に対してこうさえ思うようになった。「彼が私を傷つけないよう、もっと静かに、優しく接しなければ」。

泥棒は笑いながら屋敷のすべてを運び出し、最後には犬の首輪さえも奪って、そのまま放置した。牙を抜かれ、吠え方を忘れた犬は、がらんどうになった屋敷の真ん中で、ただ静かに飢えて死ぬのを待つことしかできなかった。

牙を抜くための「歴史」と「道徳」という洗脳

この物語は、比喩などではない。今の日本の姿そのものである。

「自衛」という概念の悪魔化

私たちが受けてきた歴史教育において、強さは「暴力」と同一視され、自衛意識は「好戦的」というレッテルと共に封印された。泥棒(侵略者や利権を貪る外圧)が入ってきても、それに対して吠えること、ましてや戦う意思を見せること自体が「悪」であるかのように刷り込まれてきたのだ。

これは「教育」の皮を被った「無力化」に他ならない。他国との緊張関係が生じれば、「話し合いで解決すべきだ」「相手を刺激するな」という声が、自衛の必要性を説く声を即座にかき消す。それは、泥棒に対して「どうぞご自由に」と扉を開け、抵抗する住人を「野蛮だ」となじる行為と同じである。

構造的な病巣:誰がこの去勢を望んでいるのか

なぜ、この不条理な構造は維持されるのか。それは、この国を「ただの餌場」として利用したい勢力にとって、牙のない番犬ほど都合の良い存在はないからだ。

国内の利権を維持する特権階級にとっては、民衆が不当な搾取に対して怒りをぶつけてこないことが最優先される。そして、地政学的にこの国を支配下に置きたい他国にとっては、日本人が「自らの国を、自らの力で守る」という当然の権利を思い出すことは最大のリスクとなる。

だからこそ、メディア、教育、そして歪んだポリコレの風潮を総動員して、「戦う意思を持つこと」へのアレルギーを植え付け続ける。彼らは、私たちが「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して、自浄作用も自衛能力も持たないまま衰退していくことを、ほくそ笑みながら見守っているのだ。

結論:餌場で終わるか、再び「牙」を取り戻すか

私たちは今、大きな岐路に立たされている。

これまで通りの「毒抜きされた牙」を持ち続け、自分たちの権利や財産、そして文化が静かに解体されていくのを、善人の振りをしながら見送るのか。それとも、押し付けられた「借り物の平和」を投げ捨て、自らを守るための「牙」を研ぎ直すのか。

事実はあまりにも残酷である。戦う意思のない国家は、もはや独立国とは呼べない。それは、外敵や内なる搾取者にとっての、ただの「餌場」に過ぎないのだ。

「平和」とは、誰かに与えられるギフトではない。自らの強さによって、他者が侵すことを躊躇わせることで初めて成立する、動的な均衡状態である。牙を持つことは、噛みつくことではない。しかし、噛みつけるという事実がなければ、番犬としての存在価値はゼロである。

私たちは思い出さなければならない。他者の顔色を伺い、自分を薄めることが道徳なのではない。自分自身と、愛すべき隣人と、この国の土壌を守るために「ノー」と言い、怒りの牙を剥くこと。それこそが、生存の本能であり、真の意味での独立精神である。

このまま「飼い殺し」にされるのか、それとも野生の誇りを取り戻すのか。屋敷の扉はすでに、外側から引き剥がされようとしている。

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