「やりがい」という名の精神的報酬が、なぜあなたの人生を削り続けるのか――「給料の出るボランティア」の残酷な構造

誠実な人間ほど、静かに、そして確実に壊されてゆく。

朝、重い瞼をこじ開け、鏡の中の疲れ切った顔と向き合う。今日もまた、誰かの命を守るために、あるいは誰かの夢を形にするために、その身を粉にして働く一日が始まる。介護現場で老人の手を取り、保育園で子供たちの喚き声に包まれ、あるいは薄暗いスタジオでアニメーションの原画を描き続ける。

「ありがとう」「素晴らしい仕事ですね」「子供たちの未来のために」。周囲からはそんな耳障りの良い言葉が投げかけられる。しかし、一歩職場を離れ、コンビニのレジ袋ひとつ買うのにも躊躇するほど目減りした財布を見つめる時、心の奥底で冷たい疑問が膨らんでいく。

「これほどまでに社会に貢献し、必要とされているはずの私が、なぜこれほどまでに貧しいのか?」

私たちは、いつから「良いこと」をしている対価として、自分自身の生活を差し出さなければならなくなったのだろう。この閉塞感は、単なる景気の不透明感ではない。もっと根深く、悪質な「構造」によって仕組まれた搾取の結果なのだ。

出口のないドネーション・コロシアム:善意が燃料として燃やされる場所

想像してみてほしい。そこは、巨大な円形闘技場だ。観客席には「一般市民」という名の大衆が並び、拍手喝采を送っている。闘技場の中で戦っているのは、あなたや、あなたと同じように「誰かのために」と願う心優しい人々だ。

この闘技場のルールは、極めて不条理である。戦士たちは、猛獣(過酷な業務)と戦い、傷だらけになりながらも観客を喜ばせなければならない。しかし、主催者が戦士に渡す報酬は、金貨ではなく「折り鶴」や「賞賛の言葉」が書かれた紙切れだけだ。

戦士が「腹が減った、パンを買うための金貨が欲しい」と訴えると、主催者は悲しそうな顔をしてこう告げる。「君の仕事は、そんな金銭的な価値で測れるほど卑俗なものじゃない。君には誇りがあるだろう? 観客の笑顔が見えないのか? それこそが、君にとっての報酬ではないのか」

戦士たちは、その言葉にどこか誇らしさを感じてしまう。そして、空腹を抱えたまま、より激しい戦いへと身を投じていく。倒れれば、「あいつは志が足りなかった」と冷笑され、すぐに新しい、情熱に満ちた若者が闘技場へと放り込まれる。主催者は、戦士たちの命や健康を「タダ同然の燃料」として燃やし続け、その熱で自らの邸宅を温めている。観客は安価にスリル(公共サービス)を享受し、戦士たちの犠牲の上に成り立つ平和を「当然の権利」として享受しているのだ。

音もなく忍び寄る「やりがい」という名の麻薬。それが、あなたの人生を少しずつ、骨の髄まで溶かしていく。

「給料の出るボランティア」という欺瞞の正体

専門性と献身のダンピング(介護・保育・クリエイティブの現場)

この比喩が指し示す現実は、あまりにも生々しい。介護や保育、アニメーターといった職業に共通しているのは、それらが「市場原理」から不当に切り離されている点だ。

本来、社会的な必要性が高く、高度なスキルを要する労働には相応の対価が支払われるべきである。しかし、これらの領域では「好きでやっている(=私的な欲望の充足)」「聖職である(=無私無欲の奉仕)」というレトリックが、賃金抑制の免罪符として機能している。経営者は、労働者の使命感や善意を「コストカットの原資」として計算に入れている。これを我々は「給料の出るボランティア」と呼ぶべきだろう。

構造的な病巣と、誰がその果実を盗んでいるのか

なぜ、この不条理な構造は維持され続けるのか。それは、国家や経営者にとって、これほど「効率の良い」ビジネスモデルはないからだ。

  1. 国家のコスト転嫁: 本来、社会全体で負担すべき福祉や教育のコストを、現場の労働者の「自己犠牲」という形で肩代わりさせている。
  2. 経営の無責任: 適切な対価を支払わずに事業を継続することは、本来であれば経営破綻を意味する。しかし、「やりがい」を武器に労働者の足を職場の床に釘付けにすることで、ゾンビのような経営が正当化される。
  3. 消費者の沈黙: 我々消費者もまた、安価なサービスの恩恵に与ることで、この搾取の構造に加担している。

「やりがい」を強調する言説は、経済的対価という本来の責任から目を逸らさせるための、巧妙な煙幕に過ぎない。経営者が「やりがい」を口にする時、それは「あなたに追加の給料を払うつもりはない」という宣言と同義なのだ。

「やりがい」という言葉は、経営者にとって最も安いボーナスである

私たちは今、この呪縛から目を覚まさなければならない。「やりがい」と「対価」は、トレードオフの関係であってはならない。むしろ、素晴らしい仕事に対しては、それに見合う素晴らしい報酬が支払われることこそが、健全な社会の証である。

「好きで選んだ道なのだから」という言葉に屈してはならない。その言葉は、あなたの労働を不当に買い叩くための武器だ。誠実な人間が、その誠実さゆえに収奪される社会に未来はない。もし、あなたの職場が「やりがい」という言葉であなたの困窮を正当化しようとするならば、それはもはや仕事ではなく、あなたの人生を供物として捧げる儀式に堕している。

これからは、冷徹に判断しよう。「やりがい」は、あなたの空腹を満たしはしないし、老後の蓄えにもならない。真のプロフェッショナルとは、自らの技術と献身に対して、堂々と「相応の対価」を要求できる者のことだ。

目を覚ませ。あなたの「善意」をタダで売り渡すな。「やりがい」という耳当たりの良い言葉を、経営者にとって最も安上がりのボーナスとして使わせてはならないのだ。

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