漂い続ける焦げ茶色の沈黙と、私たちが目を逸らす「終わり」の予感
いつからだろうか。この国の空気に、説明のつかない重苦しさが沈殿し始めたのは。日々、流れてくるニュースは物価高騰、少子高齢化、そして隣国との緊張感。しかし、私たちの日常は驚くほど平穏だ。コンビニには食料が溢れ、週末の大型商業施設は家族連れで賑わう。この「凪」の状態が永遠に続くと、誰もが疑いもせずに信じている。
だが、あなたの心の奥底には、出口のない閉塞感が澱(おり)のように溜まっていないだろうか。「何かがおかしい」「このままでは済まないはずだ」という、言語化できない生存本能が発する警告だ。私たちは、報われない努力を続け、明日も今日と同じ日が来ると信じ込み、思考を停止させている。しかし、その足元にある大地が、実は巨大な爆薬の塊であるとしたらどうだろうか。
なぜ私たちは、これほどまでに危機感を持てないのか。なぜ、目前に迫る破滅の足音を「環境音」として聞き流せてしまうのか。その答えは、私たちが自ら築き上げた、あまりにも心地よい「まどろみ」の中に隠されている。
想像してほしい、火薬庫の底で揺れる小さな炎を
視界を暗転させ、ある情景を思い描いてみてほしい。そこは、周囲を頑強なコンクリートの壁に囲まれた、巨大な地下貯蔵庫だ。部屋の隅々には、黒光りするドラム缶や、中身の詰まった木箱が天井まで積み上げられている。その表面には「高エネルギー爆薬」「火気厳禁」という無機質な警告が、幾重にも刻印されている。
この部屋の空気は、少しの火花で全てが消し飛ぶほどに張り詰めている。しかし、その部屋の中央で、一団の人々が車座になって座っている。彼らは中央に石を組み、小さな焚き火を起こした。パチパチとはぜる薪の音、オレンジ色に揺れる光。彼らは手に手を取って歌を歌い、温かいスープを啜り、語り合っている。
「ここはなんて平和なんだ」と、一人が微笑む。「外の世界は嵐かもしれないが、この壁の中にいれば安全だ。火を絶やさなければ、私たちは幸せでいられる」その時、天井の隙間から、赤い火の粉がふわりと舞い落ちてきた。火の粉は爆薬の入った木箱のすぐそばに落ち、小さな煙を上げる。一人がそれに気づく。しかし、彼はすぐに目を逸らし、隣の男にささやく。「見なかったことにしよう。騒ぎ立てて、この楽しいキャンプの雰囲気を壊したくない。あんなものは、ただの光の錯覚だ。私たちが平和を願っていれば、爆薬が爆発することなんてあり得ないのだから」
彼らは再び歌い始める。焚き火の熱が、少しずつ爆薬の臨界点を押し上げていることにも気づかずに。彼らにとって、焚き火を囲む「今」という充足感こそが真実であり、壁の向こう側や足元の爆薬は、認識の外にある「概念」に過ぎないのだ。
欺瞞のシェルターと「火の粉」を否認する構造
台湾有事・尖閣問題という名の「剥き出しの導火線」
この比喩が描くのは、空想の物語ではない。現在の日本が置かれている安全保障のリアルそのものだ。私たちの足元にある火薬庫とは、台湾海峡であり、尖閣諸島周辺の海域である。そこには、数十年かけて蓄積された地政学的な野心と軍事力が、臨界点間近まで充填されている。
近年、領海侵入や防空識別圏への挑発的な飛行といった「火の粉」は、日常茶飯事となった。本来であれば、それらは国家の存立を揺るがす異常事態であるはずだ。しかし、平穏に慣れきった私たちは、それを「いつものニュース」として処理する。あるいは、「こちらから刺激しなければ、向こうも何もしないはずだ」という、根拠のない善意の期待に縋り付く。
これは比喩における「火の粉を見なかったことにするキャンプ参加者」の姿に他ならない。挑発を直視することは、これまでの平和な日常を変容させる「不都合な真実」を認めることだからだ。
構造的な病巣:誰が「平和の麻薬」を配っているのか
なぜ、この異常な楽観主義(あるいは無関心)が維持されているのか。そこには明確な構造的要因が存在する。
第一に、政治とメディアによる「問題の先送り」だ。安全保障の抜本的な強化や、有事の際の国民保護を議論することは、有権者に不快な緊張を強いる。選挙を至上命題とする政治家にとって、火薬庫の危機を叫ぶよりも、焚き火の温かさ(バラマキや目先の安心)を語る方が得策なのだ。
第二に、戦後日本が享受してきた「依存型の平和」の成功体験がある。アメリカという巨大な防壁(あるいは共犯者)がいる限り、自分たちが当事者として火薬を管理する必要はないと、私たちは思い込んできた。
しかし、構造的な真実は残酷だ。この「見ないふり」によって最も得をしているのは、実は火薬庫を爆発させようと狙っている側である。こちらが焚き火に陶酔し、五感を麻痺させている間に、彼らは着々と導火線に火を近づけている。準備を怠り、現実を否認し続けることは、敵対者にとっての「最大の贈り物」に他ならない。
正常性バイアスという名の死神から逃れるために
心理学には「正常性バイアス」という言葉がある。予期せぬ事態に直面した際、「これは大したことではない」「自分だけは大丈夫だ」と脳が事態を過小評価し、心の平安を保とうとするメカニズムだ。
震災や火災の際、警報が鳴り響いているにもかかわらず、多くの人が「誤作動だろう」と判断して逃げ遅れる。このバイアスこそが、生存率を劇的に下げる最大の要因となる。今の日本は、まさに国家規模でこの正常性バイアスに支配されている。
私たちが突きつけられている結論は、極めて冷酷だ。「平和を願うこと」と「平和を実現すること」は、全く別の次元にある。火薬庫の中で焚き火を囲みながら平和を歌うことは、道徳的に正しく見えるかもしれないが、生存戦略としては最悪の愚策である。
正常性バイアスは、危機における最大の死亡要因である。私たちがなすべきことは、焚き火の温もりに浸ることではない。今すぐその火を消し、手元の明かりを足元の爆薬に向け、壁の向こう側の気配に耳を澄ますことだ。火の粉が飛んできているのなら、それを踏み消す準備と、壁を補強する覚悟を持たねばならない。
平和とは、目を閉じて祈ることで得られる果実ではない。冷徹に現実を直視し、最悪のシナリオを想定し、それを回避するための「牙」と「盾」を持ち続ける者だけが、辛うじて維持できる綱渡りの均衡なのだ。
私たちは、そろそろキャンプを終えなければならない。火薬庫の底にいることを自覚し、目をカッと見開く。それが、私たちが破滅を回避するために残された、唯一にして最後の手段である。
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