「人生100年」という祝祭の裏側で、私たちはいつまで走り続けなければならないのか

降りられないランニングマシンの上で

朝、鏡を見てため息をつく。昨日より少しだけ増えた白髪や、引くことのない目元の隈を。私たちはいつから、これほどまでに「将来」という言葉に怯えるようになったのだろうか。

額に汗して働き、社会を支え、家族を養う。その果てには、安らかな休息が待っているはずだった。かつての日本において、仕事とは「人生の長い午後のひととき」を迎えるための過酷な午前中であったはずだ。しかし、現代を生きる私たちの足元には、出口のない閉塞感が澱のように溜まっている。

「あと数年でゴールだ」と自分に言い聞かせ、痛む膝を抱えて走り続ける。だが、その期待は残酷なニュースによって打ち砕かれる。支給開始年齢のさらなる引き上げ、受給額の実質的な減少。私たちは、もはや自分が何のために走っているのか、その目的さえも見失いかけている。なぜ、私たちはこれほどまでに報われないのか。その答えは、巧妙に設計された「終わりのないゲーム」の構造に隠されている。

鳴り響かないホイッスル、遠ざかるゴールの白線

想像してみてほしい。あなたは今、広大なサッカースタジアムの芝の上に立っている。

ユニフォームは泥に汚れ、呼吸は荒く、心臓は破裂しそうなほどに脈打っている。試合開始からすでに数時間が経過しただろうか。感覚は麻痺し、スタジアムを埋め尽くす観客の歓声も、今ではただの不快な耳鳴りにしか聞こえない。

目の前には、ゴールがある。あの白い網の中にボールを叩き込みさえすれば、この地獄のような試合は終わる。あなたは残された最後の力を振り絞り、ボールと共にゴールへ向かって疾走する。芝を蹴る感触が重い。だが、ゴールはすぐそこだ。あと数メートル、あと数歩で――。

その瞬間、信じられない光景を目の当たりにする。

あなたがゴールに近づく。すると、あろうことかゴールポストが、芝を滑るようにして後方へと移動していくのだ。驚きに目を見開きながらも、あなたは必死に足を動かす。しかし、あなたが加速すれば、ゴールもまた加速し、常に一定の距離を保ち続ける。

「審判、いつになったら終わるんだ!」

あなたは叫ぶ。だが、審判は冷徹な眼差しで時計を見つめるだけで、笛を吹こうとはしない。ベンチの監督は「もっと効率よく走れ」「まだ体力が残っているはずだ」と拡声器で指示を飛ばしてくる。

周りを見渡せば、同じように困惑し、絶望しながら泥まみれで走り続ける選手たちの姿がある。ある者は力尽きて倒れ、ある者は虚空を見つめながら機械的に足を動かしている。この会場には、最初から「試合終了(フルタイム)」の概念など存在しなかったのだ。観客席から投げかけられる「人生100年を謳歌せよ」という華やかな横断幕が、あまりに虚しく、そして残酷に翻っている。

現代の徴兵制度としての「年金再定義」

この不条理なサッカーの風景こそが、現在の日本における年金制度と労働環境の真の姿である。

「支給開始年齢引き上げ」というゴールの移動

かつて60歳だったゴールは、いつの間にか65歳になり、今や70歳、あるいはそれ以上へと遠ざけられようとしている。「健康寿命が延びた」「現役世代の負担を減らす」という大義名分は、一見すると合理的だ。しかし、その実態は、国家というシステムが維持不可能な設計図を書き換えるために、個人の人生を「延滞代金」として徴収しているに過ぎない。

これは制度のアップデートではない。あからさまな「契約違反」である。私たちは若い頃から、老後の安心を「購入」するために、決して安くない保険料を天引きという形で強制的に支払わされてきた。しかし、いざ商品を受け取ろうと列に並ぶと、列の先頭はいつも霧の彼方へ押しやられる。

構造的な病巣と受益者の正体

なぜ、この「ゴールの動くサッカー」は止まらないのか。それは、このゲームを続行させることで得をする勢力が存在するからだ。

第一に、労働力不足を安価な高齢労働者で補いたい経済界である。定年が伸び、年金の受給が遅れれば、人々は生きるために働き続けざるを得ない。それは、低賃金でも文句を言わず、豊富な経験を持つ「使い勝手の良い歯車」が市場に供給され続けることを意味する。

第二に、構造改革を先送りにしたい政治の怠慢である。社会保障の根本的な欠陥を修復しようとすれば、痛みを伴う改革が必要になる。それを避けるための最も安易な方法が、「受給開始を後ろにずらす」という時間稼ぎなのだ。

この構造において、労働者はもはや市民ではなく、システムを維持するための「燃料」として扱われている。死ぬまで燃やし尽くし、煙となったところでようやく解放される。そんなディストピアが、今まさに完成しようとしている。

「死ぬまで働け」という呪詛を振り払うために

「人生100年時代」という言葉を聞いて、胸が躍る者がどれだけいるだろうか。このキラキラとしたキャッチコピーの裏側には、「国はもう面倒を見切れないから、死ぬまで働け」という冷徹なメッセージが隠されている。これは福音ではなく、現代における緩やかな「死刑宣告」に等しい。

私たちは、この「ゴールの動くサッカー」を強制されている世代だ。しかし、いつまでも審判の笛を待っている必要はない。まず必要なのは、自分たちが置かれている状況が「理不尽なゲーム」であると正しく認識することだ。

健康であること、長生きすること。それは本来、個人の喜びであるはずだ。それが「労働力としての生存期間」として計測され、搾取の根拠にされる不条理を許してはならない。

「人生100年時代」とは、「死ぬまで働け」の綺麗な言い換えに過ぎない。この真実を直視したとき、私たちは初めて、ゴールを動かす側ではなく、自分の足で自分の人生を歩むための闘い方を考え始めることができる。国が用意した移動するゴールを目指すのをやめ、自分たちの手で「終わりのホイッスル」を鳴らす時が来ているのだ。

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