汗と涙が報われない時代の正体
朝、目が覚めた瞬間に重くのしかかる倦怠感。満員電車に揺られ、定時にデスクにつき、夜遅くまで懸命に働いている。それなのに、私たちの給料は上がらず、生活は一向に楽にならない。この国の閉塞感は、単なる景気の波によるものではない。何かが根本から狂っているという予感は、今や確信に変わりつつある。
必死に努力し、生産性を上げようと足掻く若手社員の横で、昭和の成功体験から抜け出せない老舗企業が、国からの施策という「点滴」を受けて生きながらえている。私たちが日々感じているこの徒労感の正体は、私たちが払った税金や、本来回ってくるはずだった資本が、すでに「終わっているもの」を繋ぎ止めるために浪費されていることへの、本能的な拒絶反応なのだ。
なぜ、この国では努力が正当に報われないのか。その答えを探るためには、まず目を逸らしたくなるような残酷な景色を直視しなければならない。
鳴り止まない機械音と、生気を失った徘徊者たち
想像してみてほしい。そこは、広大で古びた病院の病棟だ。廊下には、かつては力強くこの国を支えたであろう巨躯の「住人」たちが、ぐったりと横たわっている。
彼らの胸は、自らの肺で呼吸することをやめている。その代わりに、巨大なポンプと無数のチューブが繋がれた「人工呼吸器」が、不自然な規則正しさで空気を送り込み続けている。ヒュー、パコン。ヒュー、パコン。冷たい機械音が静まり返った病棟に響き渡る。彼らの肌は土色に変色し、瞳からは光が失われている。生物学的な死は、とうの昔に訪れているはずだった。
しかし、この病院のルールは「いかなる理由があろうとも死なせてはならない」という不条理なものだ。スタッフたちは、もはや反応のない肉体に高価な栄養剤を流し込み、無理やり心臓を動かし続ける。
さらに恐ろしいことが起きている。病棟の隅で、若く、自らの足で立とうとする健康な若者たちが、やつれ果てているのだ。若者たちに与えられるべき新鮮な水や食料は、すべて横たわる「彼ら」の延命のために徴収されている。健康な者が、歩くことすらできない死体のために自らの血肉を捧げ、共に衰弱していく。
ここは、回復を目的とした場所ではない。ただ「死を先送りにする」ためだけに、生者の未来を削り取っていく収容所なのだ。
「ゼロゼロ融資」という名の劇薬と、新陳代謝の停止
この不気味な光景こそが、現在の日本経済の縮図である。人工呼吸器の正体は、コロナ禍でばら撒かれた「実質無利子・無担保(ゼロゼロ)融資」であり、絶え間なく注ぎ込まれる巨額の補助金だ。
ゾンビが優良企業の「食料」を奪い取る構造
本来、資本主義とは「淘汰」という峻厳なプロセスを経て進化するシステムである。付加価値を生み出せなくなった企業が退場し、そこに滞留していた「ヒト・モノ・カネ」という資源が、次世代の希望ある産業へと移動する。これをシュンペーターは「創造的破壊」と呼んだ。
しかし、現在の日本はどうだ。営業利益で借金の利息すら払えない「ゾンビ企業」が、公的支援という人工呼吸器によって市場に居座り続けている。彼らが存在し続けることで、以下の深刻な弊害が生じている。
- 賃金の下落圧力: 低生産性の企業が存続することで、業界全体の価格競争が激化し、まともな利益を上げている優良企業までもが賃上げの原資を奪われる。
- 労働力のミスマッチ: 本来、成長企業に流れるべき優秀な人材が、将来性のないゾンビ企業に「閉じ込められて」いる。
- 資本の硬直化: 銀行や政府の資金が死に体の企業に縛り付けられ、イノベーションを起こすべきスタートアップに資金が回らない。
誰がこの「地獄の延命」を望んでいるのか
なぜ、これほどまでに不合理な構造が維持されるのか。それは、このシステムが生み出す「目先の平穏」に依存している既得権益層がいるからだ。
政治家にとっては、地元の企業が倒産することは「失政」の烙印であり、票を失うリスクに直結する。金融機関にとっても、融資先を倒産させることは貸倒引当金の積み増しを意味し、目先の決算を悪化させる。そして何より、現場の経営者は「倒産は悪であり、恥だ」という古い価値観に縛られ、自分たちが次世代の芽を摘んでいることに無自覚なまま、延命という名の加害を続けている。
これは、社会全体で「死」という現実を否認し、そのツケをすべて未来の世代に回している、壮大な現実逃避である。
倒産は悪ではない、それは「再生」への唯一の門だ
私たちは、「倒産」という言葉に付着したネガティブな手垢を、今すぐ洗い流さなければならない。
倒産は、悪ではない。それは、システムの一部が機能不全に陥ったことを知らせる健全なアラートであり、資本主義が自己修復を図るための「必要な新陳代謝」である。森の巨木が倒れることで、地表に陽の光が届き、新しい苗木が育つように、役目を終えた企業が退場して初めて、新しい産業の息吹が生まれるのだ。
「人工呼吸器をつけたゾンビ」を救っているつもりで、私たちはこの国そのものを心中へと引きずり込んでいる。今、私たちに必要なのは、無意味な栄養剤を足すことではない。勇気を持ってコンセントを抜き、死を受け入れ、その跡地に新しい生命を植えることだ。
自らの足で立てないものを無理やり立たせるために、若者の未来を担保にするのはもうやめにしよう。新陳代謝を止めた生命体は、腐敗するしかない。この国が再び力強く呼吸を始めるためには、痛みを伴う「死の受容」こそが、唯一の希望となる。
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