なぜ私たちは、どこへ向かっているのかさえ分からずに怯えているのか
朝の駅。押し込められた満員電車の中で、ふと疑問に思うことはないだろうか。この巨大な鉄の塊は、システムが定めた通りにレールの上を進んでいる。だが、もしレールの先が絶壁だったら? もしシステム自体に致命的な欠陥があったら? 私たちはただ、スマートフォンを眺め、隣の人と肩をぶつけ合いながら、運命を「誰か」に委ねるしかないのだろうか。
現代社会を覆う閉塞感の正体は、貧困でも、増税でも、少子高齢化でもない。それらはすべて一つの巨大な症状に過ぎない。病の根源は「自分たちの運命をコントロールしている手応えがまったくない」という、底知れぬ無力感である。私たちは、何かがおかしいと叫び、SNSで不満をぶちまけ、時にデモを行う。しかし、その声が届いているという確信はどこにもない。叫んでも、叫んでも、この社会という巨体は、冷徹な慣性に従って破滅へと滑り出しているように思えてならない。
なぜ、私たちはこれほどまでに報われないのか。その理由は、この社会が「リーダーの不在」という、恐るべき空洞を抱えたまま走り続けているからだ。
鉄の棺桶――深夜の高速道を疾走する「無人のバス」
想像してみてほしい。あなたは今、深夜の高速道路を走る大型の観光バスに乗っている。車内には、若者、老人、子供、労働者、あらゆる年代の人々が詰め込まれている。バスは時速100キロを超え、凄まじい風切り音を立てながら闇の中を突き進んでいる。
ふと、あなたは違和感を覚える。バスの挙動がおかしい。車線はわずかに蛇行し、スピードは不自然に上がり続けている。不安に駆られたあなたは、立ち上がり、最前列の運転席を覗き込む。
そこであなたが目にするのは、恐怖で血管が凍りつくような光景だ。
運転席には、誰もいない。
ハンドルは路面の凹凸に合わせて勝手に左右に揺れ、アクセルペダルは床に張り付いたまま戻らない。計器類は警告の赤ランプを点滅させているが、それを見つめる瞳はそこにはない。
パニックが車内を支配する。乗客たちは叫び出す。「スピードを落とせ!」「前の車を避けろ!」「どうなっているんだ!」と。しかし、誰も自分から運転席に座り、血の滲むような思いでハンドルを握ろうとはしない。
ある者は、隣の乗客に向かって「お前のせいでこんなことになったんだ」と罵倒を浴びせる。ある者は、バスの整備マニュアルを引っ張り出し、「第3章4条によれば、この速度は不当である」と無意味な抗議を虚空に向かって唱える。またある者は、過去にこのバスを運転していた伝説的な運転手の名前を呼び、奇跡が起きるのを祈っている。
バスがガードレールを擦り、火花が散る。それでも、乗客たちの議論は終わらない。「誰が一番悪いのか」「誰が今の状況を説明する責任があるのか」について、延々と、民主的に、多数決で犯人探しを続けている。だが、肝心のブレーキを踏む足は、どこにも存在しないのだ。
「民主主義」という名の思考停止と責任転嫁の構造
システムという名の自動操縦装置
この「無人のバス」こそが、現在の日本社会そのものである。私たちは、かつて先人たちが作り上げた「高度経済成長」や「法治国家」という強力な慣性の上で、ただ運ばれているに過ぎない。
かつての日本には、良くも悪くも「ハンドルを握る者」がいた。しかし、現代の統治機構において、運転席は完全に空文化している。政治家は官僚が作った台本を読み、官僚は前例というレールから外れることを恐れる。企業はコンプライアンスという見えない壁に怯え、リスクを取ることを放棄した。
誰もが「制度」や「ルール」という自動操縦装置に従っているだけで、自らの意志で進路を修正しようとはしない。これが、私たちが直視すべき「誰もいない運転席」のアナロジーである。
責任を溶解させる「合意形成」の罠
なぜ、この異常な事態が放置されているのか。それは、この国において「決定」というプロセスが、責任を果たすためではなく、責任を「蒸発させる」ために機能しているからだ。
何か問題が起きれば、検討委員会が立ち上がり、有識者が招集され、多方面への配慮が行き届いた「調整」が行われる。その結果導き出される結論は、誰も傷つけない代わりに、何の問題も解決しない、骨抜きの中間案である。
このプロセスに参加した人々は、後になってこう言い訳する。「みんなで決めたことだ」「手続きは適正だった」と。誰かが独断で決めたわけではないから、誰かが責任を取る必要もない。こうして、この国では失敗の責任がシュレッダーにかけられた紙屑のように細分化され、誰の手にも残らないように処理される。
「みんなで決めた」は「誰も責任を取らない」の同義語である
私たちは、独裁を嫌い、民主的な対話を重んじてきた。そのこと自体は高潔な理想だ。しかし、現代の日本における「みんなで決めた」という言葉は、もはや民主主義の賛辞ではない。それは「誰も責任を負いたくない」という卑俗な逃避の合言葉に成り下がっている。
無責任の連鎖が、日本の活力を削ぎ落としている。少子化対策、エネルギー政策、デジタルトランスフォーメーション――どの課題をとっても、必要なのは「痛みを伴う決断」と、その結果に対して全責任を負う「個人」の存在だ。しかし、今のシステムは、そのような突出した個人の出現を徹底的に排除するように設計されている。
バスが崖に向かっているとき、「みんなで相談して、穏便に落ちる方法を探しましょう」と言う人間に価値はない。必要なのは、周囲の罵声や反対を押し切ってでも運転席に飛び乗り、力任せにハンドルを切り、ブレーキを床が抜けるほど踏み抜く人間だ。
読者諸君に問いたい。あなたもまた、あの暴走するバスの客席で、誰かの失言を叩き、正義の味方のふりをして、時間を潰している一人ではないか。
この国を救うのは、洗練された議論でも、公平なルールでもない。自らの言葉に、自らの行動に、そして自らの人生に、逃げ場のない「個の責任」を取り戻すことだ。「誰もいない運転席」に絶望する暇があるのなら、私たちがすべきことは一つしかない。
自らがその席へ向かうか、あるいは、命がけでハンドルを握ろうとする者を、全力で守ることだ。連帯という名の無責任を捨てたとき、初めてバスの進路は変わり始めるのである。
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