砂漠に種を撒く国家の喜劇――なぜ「結婚支援」は若者の絶望を加速させるのか

乾いた大地で「出会い」を叫ぶ不条理

朝、鳴り響くアラームに急かされ、満員電車に揺られて数時間の命を切り売りする。手元に残る給与は、天引きという名の略奪を経て、日々の生存を維持するだけで精一杯の額だ。SNSを開けば、きらびやかな消費社会の残骸と、少子化を憂う政治家の空疎な言葉が躍っている。

「若者の草食化がついにここまで来たか」「出会いの場さえあれば、彼らも一歩踏み出すはずだ」。そんな高慢な分析に基づき、多額の税金が「婚活イベント」や「マッチングアプリ開発」へと投じられる。しかし、当の若者たちが感じているのは、背中を押される高揚感ではなく、底なしの徒労感である。

なぜ、これほどまでに支援は空回りし続けるのか。なぜ、私たちは「幸せな家庭」という、かつては当たり前だったはずの風景を、これほどまでに遠く感じてしまうのか。その答えは、現在の少子化対策が、生物的な生存戦略を無視した「砂漠での種まき」に過ぎないからだ。

灼熱の砂丘に消える、一粒の「絶望」

想像してみてほしい。あなたは今、見渡す限りの砂漠に立たされている。足元を焼く砂の熱、喉を突き刺すような乾き。視界を遮るものは何もなく、ただ過酷な日光が容赦なく降り注いでいる。生きているだけで体力が削られ、一歩歩くごとに生存の可能性が目減りしていく。そんな極限状態の場所に、ある日、きらびやかなスーツを着た役人がやってくる。

彼は満面の笑みで、一粒の「花の種」を差し出し、こう告げる。「さあ、この種を植えなさい。きっと美しい花が咲き、あなたの人生を彩るでしょう。場所はこの砂地で構いません。植える道具や、植え方の講習会なら、我々がいくらでも用意しましょう」

あなたは呆然と立ち尽くす。必要なのは、種を植えるための技術でも、植える場所の指定でもない。その種が芽吹き、根を張り、花を咲かせるために不可欠な「水」だ。豊かな土壌だ。しかし、役人の背後にある荷台には、種袋や「種まきの指南書」が山積みになっているが、水瓶は一つも見当たらない。それどころか、彼はあなたがやっとの思いで確保したわずかな飲み水を「管理費」として徴収していく。

あなたは乾いた喉で必死に訴える。「まず水が必要だ。水がなければ、どんなに素晴らしい種を撒いても、明日には枯れ果ててしまう」と。だが、役人は聞き入れない。「努力が足りない」「今の若者は花を咲かせる情熱を失った」と嘆いてみせ、また別の行き倒れそうな旅人に種を配りに行く。その背後では、種や指南書を納品した業者が、受け取った金銭を数えながらほくそ笑んでいる。

砂漠に撒かれた種は、風に吹かれ、熱に焼かれ、誰に看取られることもなく死んでいく。これが、今の日本という国で繰り広げられている「婚活支援」の縮図である。

構造的な「水不足」を隠蔽するマッチングの罠

枯渇した所得という名の生命水

この比喩において、決定的に欠けている「水」とは、言うまでもなく所得の向上と将来への確信である。結婚とは、生活の統合だ。現代の日本において、一人の人間が生存することさえ困難な経済状況下で、誰かを人生に招き入れることは、リスクの共有ではなく「貧困の共連れ」を意味する。

実質賃金は下がり続け、社会保険料は膨れ上がり、若者の可処分所得は枯渇している。この状況で「出会いの場」だけを提供するのは、水のないプランターに種を押し込み、「あとは個人の努力で芽を出せ」と強要するに等しい。行政が進める結婚支援イベントは、構造的な経済問題を「個人のコミュニケーション能力」や「出会いの多寡」というミクロな問題にすり替えるための装置として機能している。

中抜きされる予算と「支援ごっこ」の正体

さらに醜悪なのは、この「芽の出ない種まき」が、特定の誰かにとっては極めて効率的なビジネスになっている点だ。自治体が予算を投じて開催する婚活パーティー、多額の公金で作られた使い勝手の悪いマッチングシステム。これらのプロジェクトが成功したか否かは、実は重要ではない。予算が執行され、広告代理店やイベント運営会社、ITゼネコンの懐に「種代」としての公金が流れ落ちれば、それで「事業」としては成立してしまうのだ。

本来、その予算は現金の直接給付や、住宅支援、教育費の無償化といった「水」に変えられるべきだった。しかし、構造的な改革には痛みが伴い、既得権益を脅かす。だからこそ、行政は「やっている感」を演出でき、かつ利権構造を維持しやすい「イベント型の支援」に固執する。若者の絶望を燃料にして、一部の業者が肥え太る。これが、少子化対策という名の不条理な経済サイクルである。

「個人の努力」という名の暴力に抗え

私たちは、もう騙されてはいけない。結婚できない、子供を持てないという悩みが、自分自身の魅力の欠如や、行動力のなさに起因しているという言説は、構造的な問題を隠蔽するための暴力である。

「砂漠での種まき」において、芽が出ない責任は種を撒く者にはない。その大地を砂漠のまま放置し、水を分配することを拒みながら、形式的な「支援」で茶を濁すシステム側にこそ、真の責任がある。環境要因を無視し、個人の努力を推奨するのは、行政による責任放棄であり、明白な怠慢である。

核心:環境を変えない支援は、ただの「偽善」である

少子化という問題の核心は、出会いの欠如ではなく、生存への不安である。若者が求めているのは、週末のパーティーを彩る軽薄な「出会い」ではなく、明日も、来年も、10年後も、この社会で安心して生きていけるという「確信」だ。

もし本気でこの国に花を咲かせたいのであれば、やるべきことは明白だ。種を配るのを今すぐやめ、この干上がった大地に水を引くこと。すなわち、中間層の復活、徹底的な若年層への富の再分配、そして失敗しても飢えることのないセーフティネットの再構築である。

土壌が豊かになれば、人間は誰に言われずとも自ら種を蒔き、育てる強さを持っている。「砂漠に種を撒く」という愚行を許容し続ける限り、この国は、若者の希望という名の「死骸」を積み上げながら、ゆっくりと、しかし確実に崩壊へと突き進んでいくだろう。私たちが今すべきことは、配られた種を受け取ることではなく、水のないプランターを蹴り飛ばし、この不条理なルールそのものに異を唱えることなのだ。

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