誰のための「支援」かという、消えない違和感の正体
私たちは日々、懸命に働き、重い税を納めている。手取り額の減少に溜息をつき、物価高に眉をひそめながらも、それが回り回って「社会の役に立つ誰か」や「本当に困っている弱者」を救う一助になると信じたいからだ。しかし、どうだろう。ニュースに目を向ければ、生活困窮者支援やDV被害者支援を謳う団体が、不透明な会計処理や血税の不当な搾取、いわゆる「公金チューチュー」と揶揄される疑惑で世間を騒がせている。
「弱者を助ける」という、これ以上ないほど潔白で正しいスローガンの裏で、何かが決定的に歪んでいる。私たちが感じるこの不快な閉塞感は、単なる嫉妬ではない。自分の血肉の一部である税金が、救うべき対象に届く前に、得体の知れない「中間搾取者」の胃袋に消えていくことへの本能的な拒絶反応である。なぜ、私たちの善意は常に、野心家たちの肥やしにされてしまうのだろうか。
楽園を侵食する「美しい毒草」の寓話
想像してみてほしい。そこは、ある村の共同菜園だ。村人たちは協力して土を耕し、なけなしの肥料を蒔いた。「この畑で育つ作物が、いつか空腹に喘ぐ子供たちや、病に倒れた老人たちの命を繋ぐはずだ」と信じて。
ある日、一際鮮やかな、見たこともないような「美しい花」が菜園のあちこちに咲き始めた。「この美しい花が咲けば、荒んだ村も明るくなるに違いない」と村人たちは喜び、その根元にさらに多くの肥料を注ぎ込んだ。しかし、異変はすぐに起きた。
その花が大きくなればなるほど、本来育つはずだったジャガイモや麦が、みるみるうちに萎れていったのである。不審に思った一人の村人が、その美しい花の根元を掘り返してみた。すると、どうだろう。その花の根は、鋼のように強靭で、信じられないほどの速さで地中を這い回り、隣に植えられた作物の根に深く食い込み、そこから吸い上げるべき養分をすべて横取りしていたのだ。
それは「花」のフリをした、恐るべき寄生植物だった。さらに恐ろしいことに、その寄生植物は、自分が養分を奪っている作物が完全に枯れ果てないよう、絶妙な手加減をして生かし続けていた。作物が死んでしまえば、寄生先がなくなり、自らも糧を失うからだ。村人がその毒草を引き抜こうとすると、毒草は甘い香りを放ち、周囲にこう囁きかける。「私を抜くというのか? 私はこんなに美しく、見る人の心を癒やしているのに。私を抜くのは、美しさを否定する悪人のすることだ」
村人は戸惑い、手を止める。その間にも、地下では寄生植物の根がさらに太く、強固に張り巡らされていく。
弱者を「資源」として再定義する支援ビジネスの構造
美しい看板に隠された「吸い上げ」のシステム
この寓話における「美しい花」こそが、今問題となっている一部の特定非営利活動法人(NPO)や一般社団法人の姿である。彼らが掲げる「女性支援」「貧困対策」「多様性の尊重」といった看板は、現代社会において反論を許さない絶対的な正義の鎧だ。しかし、その実態は、国や自治体から注ぎ込まれる巨額の「公金」という名の肥料を、独占的に吸収するための装置に他ならない。
彼らにとって、救うべき弱者は「解決すべき問題」ではない。むしろ、活動を継続し、予算を獲得し続けるために「絶やしてはならない貴重な資源」なのである。問題が根本的に解決してしまえば、彼らの存在意義(=予算の根拠)は消失する。だからこそ、彼らは弱者を自立させることよりも、自らの組織に依存させ、いつまでも「支援が必要な状態」に留め置くことを選ぶ。
官民癒着と「公金」という名の無尽蔵な土壌
なぜ、このような歪な構造が解体されずに長く放置されてきたのか。そこには、責任を外注したい行政と、権力の後ろ盾が欲しい支援団体との強固な共生関係がある。
行政にとって、複雑な社会問題に直接向き合うのはコストもリスクも高い。専門性を謳う民間団体に予算を丸投げし、「委託」という形にすれば、現場の不手際も彼らの責任にできる。一方で団体側は、行政のお墨付きを得ることで、検証の目を潜り抜けやすくなる。この「誰も責任を取らないシステム」の中で、私たちの税金は検証も批判もされぬまま、寄生植物の根を太らせるための定額給付金へと成り果てているのだ。
「公金」という肥沃な大地に咲く毒を抜き去るために
「公金」という肥量がある場所に、最も生命力の強い寄生植物が生える――これは、社会の不可避な摂理かもしれない。栄養が集中する場所には、それを効率よく奪い取ろうとする生存戦略が必ず現れる。しかし、私たちが直視すべきなのは、その寄生植物が肥大化する影で、本当に助けを必要としている人々が、さらなる飢餓と絶望に追いやられているという事実だ。
「善意」を盾にする者たちを疑うことは、時に不道徳だと感じられるかもしれない。しかし、真の救済とは、叫び声を上げることさえできない静かな弱者に手を差し伸べることであり、拡声器を使って「救済」を叫び、予算を貪るパフォーマンスに拍手を送ることではないはずだ。
私たちは、美しい花の形をした看板に騙されてはならない。その根がどこに伸び、誰から何を奪っているのかを冷徹に見極める必要がある。寄生植物に肥料を与えるのをやめること。それこそが、枯れかけた本来の作物を救い、社会の健全な循環を取り戻すための、唯一かつ残酷で慈悲深い処方箋なのである。
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