胃の腑に落ちない、この「豊かな国」の違和感
朝から晩まで粉骨砕身し、定時に届く通知には、数年前と変わらぬ数字が並んでいる。かつてその数字は、週末のささやかな贅沢や、将来への安心を約束してくれる「チケット」だったはずだ。しかし、どうだろう。スーパーのレジで、あるいは家賃の引き落とし口座を確認するたび、私たちは拭い去れない奇妙な感覚に襲われる。
「帳尻は合っているはずなのに、なぜか生活が苦しい」
私たちは怠けているわけではない。生産性が極端に落ちたわけでもない。それどころか、スマートフォンという魔法の杖を使いこなし、かつてないスピードで業務をこなしている。にもかかわらず、手元に残る実感としての豊かさは、掌から溢れる砂のようにサラサラとこぼれ落ちていく。この慢性的な「暮らしの痩せ細り」は、個人の努力不足や節約術の不備などという矮小な問題ではない。私たちの社会全体が、ある巧妙なトリックによって、静かに飢えさせられているのだ。
「魔法のスープ」が振る舞われる巨大な食堂
想像してみてほしい。あなたは、ある広大な工場の食堂に座っている。そこでは毎日、重労働の報酬として一杯の「特製スープ」が提供される。数年前、そのスープは具だくさんで、濃厚な出汁の香りが漂い、一杯飲めば明日への活力が漲るものだった。
しかし、ある時から変化が起きた。配膳されるスープの器は変わらない。目の前に置かれる液体の「量」も、水面の位置は1ミリも変わっていない。調理場の主人はこう告げる。「安心しなさい。スープの量は減らしていない。今まで通り、なみなみと注いでやっているぞ」と。
だが、いざ口に含んでみると、かつての力強さはどこにもない。色は透き通り、味は驚くほど薄い。具材は微細な断片にまで刻まれ、出汁の旨味はただの「塩水」に近い何かへと変質している。空腹を満たすために二杯、三杯と欲しても、許されるのは相変わらず同じ一杯だけ。
あなたは不信感を抱き、隣の席の労働者に囁く。「これ、薄まっていないか?」と。しかし隣人は、目の前の「器一杯の量」だけを見て答える。「何を言っているんだ。量は変わっていないじゃないか。不平を言うのは失礼だよ」
工場の窓の外では、薪の値段が上がり、野菜の価格が高騰しているのが見える。調理場の主人は、高くなった食材を買う代わりに、水道の蛇口を全開にして鍋の嵩(かさ)を増やしたのだ。器を満たす液体の正体は、栄養ではなく、ただの「無価値な水」である。労働者たちは「量は維持されている」という視覚的欺瞞に騙され、自らの胃袋が悲鳴を上げている事実から目を逸らし、今日も泥のように眠る。
「実質」という名の栄養素が抜き取られた社会
この薄められたスープこそが、現在の日本経済における「名目賃金」の正体である。
「変わらない給料」という名の、目に見えない減給
私たちが直面している「スタグフレーション」の本質は、比喩の中のスープと全く同じだ。給与明細に印字された数字(名目賃金)が変わらなくても、その数字で買える商品やサービスの量(購買力)が激減しているのである。
私たちが手にしている一万円札は、もはや十年前の一万円札ではない。輸入コストの上昇や円安という「薄め液」を大量に投入され、その実質的な価値=栄養価は極端に希釈された。これが、いわゆる「実質賃金の低下」である。政府や企業が「賃上げ」を謳っても、それが物価上昇率(スープの希釈率)に追いついていなければ、それは実質的な減給に他ならない。
構造的な病巣:誰が水を混ぜているのか
なぜ、この構造は維持されるのか。それは、通貨価値を下げ、借金の負担を実質的に減らしたい発行体や、コスト増を賃金抑制で抑制しようとする資本家にとって、この「サイレントな没収」が極めて都合が良いからだ。
消費税の増税には激しい抵抗が起きる。しかし、インフレによって静かに通貨価値を削り取る行為は、目に見える痛みが伴いにくい。人々は「物価が高いのは世界の情勢のせいだ」と諦め、「自分の給料が上がらないのは能力のせいだ」と内省する。この心理的メカニズムこそが、搾取を効率化させる潤滑油となっている。
さらに深刻なのは、私たちが「名目の数字」に固執するように教育されている点だ。額面が変わらなければ安心してしまう。その間に、私たちの人生の時間という「もっとも貴重な資源」が、薄いスープと交換され、どこかへ吸い上げられているというのに。
スタグフレーションとは、静かに行われる資産の没収である
私たちは、認めなければならない。今起きているのは、単なる不況ではない。私たちの過去の蓄えと、現在の労働、そして未来の希望が、インフレという装置を通じて「強制的に没収」されているプロセスなのだ。
「水を薄めたスープ」を前にして、私たちが取るべき行動は、より速く飲むことでも、薄さを我慢することでもない。まず、そのスープが薄まっているという事実を、怒りを持って直視することだ。数字という仮面に惑わされず、自分の生活の「質感」を信じること。どれだけ働いても生活が楽にならないのは、あなたが悪いのではなく、器に水を注ぎ続けているシステムの側が致命的に壊れているからである。
豊かさとは、通帳の数字の羅列ではない。その数字でどれだけの人生を謳歌できるかという「栄養」のことだ。この本質を見失ったとき、私たちは永遠に満たされることのない食堂で、透明なスープを啜り続けるだけの「部品」へと成り下がる。
今、私たちが求めるべきは、器の大きさへの執着ではなく、その中身の密度を取り戻すこと。奪われ続ける側から、構造を問い直す側へと椅子を引くこと。それだけが、この静かな没収から逃れる唯一の道である。
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