医学という名の「空気」が命を刈り取る——なぜ日本は科学的根拠を捨てたのか

閉塞感の正体:私たちの命は「誰」に預けられているのか

日々のニュースを眺めていると、胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさを感じないだろうか。物価は上がり、実質賃金は下がり、かつて誇った社会保障制度は音を立てて軋んでいる。それに対する権力者の説明は、常にどこか空疎だ。数字の裏付けはなく、論理的な一貫性も欠如している。あるのは「遺憾である」「検討する」「全力を尽くしている」という、手垢のついた言葉の羅列だけである。

私たちは薄々気づいているはずだ。船の舵を握っている者たちが、実は海図の読み方すら知らないのではないか、という恐怖に。私たちが抱いている不安や徒労感は、個人の努力不足によるものではない。私たちの命と生活を司るシステムそのものが、決定的な「知性の欠如」という病に冒されていることへの生存本能的なアラートなのだ。

なぜ、この国ではどれほど論理的な正論を積み上げても、決定が歪められてしまうのか。なぜ私たちは、これほどまでに救われないのか。その不条理の構造を理解するために、ある「架空の病院」の物語を想像してみてほしい。

出口のない手術室:免許のない医師団が支配する聖域

想像してみてほしい。あなたは今、冷たいステンレスの手術台の上に横たわっている。無影灯の眩しさが視界を焼き、消毒液の鼻を突く匂いが充満している。心臓の鼓動が早まり、モニターの電子音が室内に虚しく響く。あなたの命は、これから始まる手術に委託されている。

手術室の重い扉が開き、医師団が入ってくる。しかし、彼らの立ち振る舞いには違和感がある。メスの握り方も知らず、麻酔の量も計算できない。彼らは医学部を卒業した者たちではなく、単にその病院の「談話室での人気投票」で選ばれただけの素人集団なのだ。

彼らはあなたの開かれた腹部を前にして、医学書を開くことすらしない。「最近、巷ではこの色の糸が流行っているから、これで縫おう」「今日は天気が悪いから、出血が多くても仕方がないことにしよう」彼らが議論しているのは、生理学的なエビデンスではなく、「どの術式が一番見栄えがよく、待合室の家族(有権者)に説明しやすいか」という空気の読み合いだ。

あなたが苦痛に顔を歪めても、彼らは止まらない。血圧が危険な数値まで下がれば、一人が叫ぶ。「気合が足りない!もっと前向きな言葉をかけろ!」。科学的に算出された輸血管を繋ぐ代わりに、彼らは精神論を唱え、お互いの顔色を伺いながら、当てずっぽうに臓器を弄んでいく。

そして、最悪の事態が訪れる。あなたが息を引き取ったとき、彼らは血に汚れた手を見つめ、平然と記者会見を開く。「我々は最善を尽くした」「状況は想定外に複雑だった」「誰もがこの判断を支持していた」彼らにとっての「成功」とは、患者を救うことではない。手術が失敗しても、自分たちの責任が問われないように「雰囲気」を整え、責任を分散させることにある。これが、「免許のない医師団」が支配する病院の正体だ。

現実社会への翻訳:専門性を排除する日本型意思決定の病巣

この悪夢のような光景は、決してフィクションではない。私たちの社会において、政策決定という名の手術台で日々行われていることの正確なアナロジーである。

「エビデンス」を「ムード」が飲み込む惨状

現代社会においては、経済、公衆衛生、エネルギー、外交など、あらゆる分野において高度な専門性が求められる。しかし、日本の意思決定の場である「専門家会議」や「審議会」の実態はどうだろうか。そこでは、真に客観的なデータや科学的根拠(医学)よりも、政治家が抱く「これなら世間体がいい」という思惑や、特定の支持層への配慮といった「空気」が優先される。数値を無視して予算をバラ撒き、効果が検証されないままに巨額のプロジェクトが進んでいく。これはまさに、医学を知らぬ者が感覚でメスを振るっている状態に等しい。

構造的な病巣:誰がこの無知を温存しているのか

なぜ、このような致命的な体制が維持されるのか。それは、このシステムが「責任を取らなくていい」という点において、権力側にとって極めて都合が良いからだ。専門知に基づいた判断は、結果に対して明快な説明責任を伴う。データが示す通りにいかなければ、それは判断の誤りとして記録される。しかし、「みんなで相談して決めた空気」に従うのであれば、失敗したとしても「当時はそれがベストだと思われていた」という言い訳が成立する。

さらに、この構造を補完しているのが、理屈よりも「納得感(雰囲気)」を優先してしまう社会全体の風潮だ。複雑なデータに基づいた苦渋の指摘よりも、耳触りの良い根拠なき自信に満ちた言葉に、人々は流されやすい。専門家の冷静な警告は「冷笑的だ」と退けられ、無知なる者の熱意が「突破力」として賞賛される。この反知性主義こそが、免許のない医師たちを執刀台に立たせ続けている元凶である。

科学的根拠よりも、政治的判断が優先される非科学立国

私たちは今、大きな過渡期に立たされている。かつての右肩上がりの時代であれば、多少の「的外れな手術」でも、社会の若さと体力がそれをカバーできた。しかし、今の日本にそんな余力はない。一度の致命的なミスが、文字通りこの国の終わりを意味する段階に来ている。

私たちが突きつけられている現実はこうだ。日本はもはや、技術立国でも知性立国でもない。科学的根拠よりも政治的判断が優先され、論理よりも情動が上位に置かれる「非科学立国」へと成り果てている。

解決策は、単に「リーダーを入れ替える」ことではない。意思決定のプロセスそのものに「科学の絶対性」を取り戻すことだ。個人の感情や、選挙の票読みや、その場の雰囲気で捻じ曲げることのできない「客観的な事実」に、決定権の一部を譲り渡す勇気が必要だ。

「ベストを尽くした」という言葉を信じるのはもうやめよう。それは無能が自己を守るための呪文に過ぎない。私たちが求めるべきは、感情的な満足ではなく、生存のための正確な術式である。専門性を軽視し、空気で物事を決める「免許のない医師団」の手から、私たちの命を奪い返さなければならない。

科学的根拠という冷徹な灯火だけが、この閉塞した手術室を照らす唯一の希望なのだから。

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