リスクゼロの亡霊が日本を殺す――「ブレーキを踏む助手席」という名の緩慢な自殺

なぜ、あなたの「挑戦」はいつも誰かに足止めされるのか

朝、目が覚めた瞬間に感じる、あの重苦しい停滞感は何だろうか。昨日と同じ景色、昨日と同じルーチン。私たちは誰もが「もっと良くしたい」「新しいことを始めたい」という根源的な欲求を持って生きている。それにもかかわらず、この国の空気はまるで重粘なオイルのように私たちの足を絡めとり、一歩前へ進むことを許さない。

多くの者は、それを「自分の能力不足」や「景気の不透明感」のせいにする。しかし、それは間違いだ。あなたが感じているその閉塞感には、明確な構造上の「犯人」が存在する。あなたが必死にアクセルを踏み込み、日本の未来を前進させようとするたびに、音もなく横から差し込まれる「負の力」。それこそが、私たちが直面している不条理の正体である。

なぜ、この国では何一つとして、劇的な変化が起きないのか。なぜ、若き才能たちは海を渡り、国内には「かつての成功の残骸」だけが積み上がっていくのか。その絶望的な構造を紐解くための、一つの物語を共有しよう。

速度を禁じられた疾走――「助手席」が支配する密室のドライブ

想像してみてほしい。あなたは今、一台の車を運転している。目の前にはどこまでも続くはずのハイウェイが広がっている。あなたは、遠くの目的地へ、まだ誰も見たことのない景色へと辿り着くために、ハンドルを握った。エンジンは高鳴り、燃料は十分に満ちている。あとはアクセルを力強く踏み込み、加速するだけだ。

しかし、あなたの車の助手席には、頼んでもいない「同乗者」が座っている。その男は、古びた制服をパリッと着こなし、膝の上には分厚いマニュアルを広げている。あなたがアクセルに足をかけ、時速がわずかに上がった瞬間だ。横からヌッと白い手袋をはめた足が伸びてきて、助手席側の補助ブレーキを思い切り踏み抜く。

「危ないですよ」男は表情一つ変えずに告げる。彼の視線は、マニュアルの一行に向けられている。「前例がありません。万が一、小石が跳ねてフロントガラスにヒビが入ったらどうするんですか? もし、タイヤの摩耗が想定より数ミリ早まったら、誰が責任を取るんですか?」

あなたは反論する。「スピードを出さなければ、目的地には辿り着けない。リスクを取らなければ、道は拓けないんだ」と。しかし、同乗者は聞き入れない。彼にとって重要なのは「目的地に到着すること」ではなく、「道中で一度もヒヤリとしないこと」なのだ。

ついには、彼はこう言い出す。「外に出るからリスクが生じるんです。車庫に戻りましょう。車庫の中でエンジンをふかしている分には、誰も傷つきません。それが最も『安全』な解決策です」

あなたは、シャッターの閉まった暗い車庫の中で、ただ空吹かしを続ける。排気ガスが充満し、意識が遠のいていく。これが、今この国で起きている「イノベーション」の正景である。

既得権益という名の「補助ブレーキ」を暴く

岩盤規制:安全を盾にした成長の去勢

この「ブレーキを踏む助手席」の正体こそが、日本の成長を阻害し続ける岩盤規制と、そこに巣食う既得権益者に他ならない。起業家(運転手)が新しいテクノロジーやビジネスモデルという名のアクセルを踏もうとするたびに、行政や既存業界(助手席)は「国民の全安全を守る」という大義名分を振りかざしてブレーキを叩く。

例えば、シェアリングエコノミー、ドローン、遠隔医療、自動運転——。世界が驚異的なスピードで実装を進める中、日本での展開は常に「想定される不利益」の検証という名の空転に費やされる。既存のプレイヤーを守るために作られた古い法律が、新しい芽を摘み取る。彼らにとって、変化は「リスク」でしかなく、現状維持こそが「正解」なのだ。

構造的な病巣:無責任な「責任回避」

なぜ、この構造は維持され続けるのか。それは、このシステムにおけるインセンティブが「失敗させないこと」にのみ特化しているからだ。官僚や組織の決定権者にとって、何かを許可して成功したとしても、彼らの懐が潤うことはない。しかし、許可したものが万が一にでも事故を起こせば、彼らは激しい糾弾を浴び、キャリアに傷がつく。

つまり、社会全体が「プラスを増やすこと」よりも「マイナスをゼロにすること」に必死になっているのだ。この「減点方式の正義」が、誰にも得をさせない構造を再生産し、結果として国全体の沈没を招いている。助手席の男は、あなたの車が目的地に着かなくても困らない。彼が恐れているのは、自分の履歴書に「事故に関与した」という一行が書き加えられることだけなのだ。

リスクゼロという幻想、リターンゼロという現実

私たちは認めなければならない。リスクを徹底的に排除しようとするその姿勢こそが、現代日本における最大のリスクであることを。

「危ないから」という理由で車を車庫に閉じ込めれば、確かに交通事故は起きない。しかし、その車は二度とどこかへ辿り着くことはできず、ただ錆びついて朽ちていくだけだ。世界は今、猛烈なスピードで動いている。他国が事故の痛みを引き受けながらも、その先の景色を掴み取ろうと加速している傍らで、日本だけが「絶対安全な車庫」に引きこもり、燃料(資本と時間)を浪費し続けている。

リスクをゼロにしようとすれば、可能性もまたゼロになる。試行錯誤を禁じる社会に、進化は訪れない。私たちは今、選ばなければならない。助手席の男が踏み続けるブレーキを、力ずくで跳ね除けてでも進むのか、それとも排気ガスにまみれて車庫で死ぬのを待つのか。

必要なのは、完璧な安全策ではない。転んでも立ち上がり、再びアクセルを踏み直すための「レジリエンス(回復力)」だ。前例のないこと、危険を孕むこと、それを「不謹慎」や「無謀」と呼ぶのをやめよう。それこそが、私たちが生きている証であり、停滞を打ち破る唯一の手段なのだ。

リスクゼロを目指す社会に、未来はない。私たちが求めるべきは、安全な檻ではなく、嵐の中を駆け抜ける覚悟である。さあ、その不当なブレーキから足をどかせ。道は、まだ終わっていない。

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