蛇口から流れる泥水を、私たちは「真実」と呼び続けている
朝、スマートフォンの画面を指でなぞり、溢れ出る情報の洪水に身を投じる。しかし、その膨大なデータの海を泳ぎながら、私たちの胸の奥には得体の知れない「渇き」がこびりついていないだろうか。懸命に学び、ニュースを追いかけ、社会を理解しようと努めれば努めるほど、世界の見通しは悪くなり、手元には正体不明の不信感だけが残る。
なぜ、これほどまでに情報が溢れる時代において、私たちは「自分たちの意志で未来を選んでいる」という実感を持てないのか。なぜ、議論は常に平行線をたどり、本質から逸れた罵り合いばかりが加速するのか。その答えは、私たちが知識を得るための「経路」そのものが、修復不可能なほどに腐食しているという事実に隠されている。私たちが懸命に飲み込もうとしているその「知識」という名の水は、実は源流の輝きを失った、有害な泥水に変わっているのだ。
想像してみてほしい、見捨てられた浄水場と「黄金のしずく」の物語
峻厳な山々の頂、そこには「真実」という名の透き通った水源がある。冷たく、一切の不純物を含まないその水は、本来、麓に住むすべての人々の命を潤し、知性を育むための共有財産であるはずだった。
しかし、その水源からあなたの街の蛇口まで水を運ぶ「水道管」を想像してほしい。その管は、設置されてから一度もメンテナンスされることなく、内部は赤黒い錆に侵食されている。ところどころに亀裂が入り、外からは不純物やどろどろとしたイデオロギーの汚泥が染み出している。
あなたが喉の渇きを癒そうと蛇口をひねったとき、出てくるのはクリスタルのような清水ではない。鉄の臭いが鼻を突き、茶色く濁った、飲むに耐えない液体だ。
その街の人々は、生まれた時からその濁った水しか知らない。親は子に「これが水というものだ」と教え、学校の教師もまた「この濁りこそが栄養だ」と説く。時折、源流の清らかさを知る者が「この水は汚染されている」と叫んでも、大半の住民は「何を贅沢なことを。水が出るだけでありがたいと思え」と冷笑する。
管を管理する役人たちは、錆を落とすコストを惜しみ、むしろ自分たちの都合の良い着色剤をこっそりと管の途中に流し込む。住民が正しく物事を判断できるようになれば、自分たちの権力構造が脅かされることを知っているからだ。結果、人々はその濁った水を飲み続け、ゆっくりと、しかし確実に思考の回路を蝕まれていく。これが、私たちが「教育」と呼んでいるシステムの、剥き出しのメタファーである。
知識の源流は清らかでも、「現場」という管がすべてを汚染する
情報リテラシーという名の幻想
この比喩が指し示す現実は、あまりにも残酷だ。現代社会において、高度な学問や客観的なデータといった「知識の源流」はかつてないほど充実している。インターネットを開けば、一次資料にアクセスすることさえ容易だ。しかし、それを受け取る側、つまり私たち国民を形作る「教育」というインフラが、深刻な機能不全に陥っている。
教育現場という「水道管」は、今や旧態依然とした制度と、特定の政治的・社会的バイアスという錆に覆われている。子供たちが学ぶべき「情報の扱い方」や「批判的思考」は、現場に届くまでに、教える側の偏見や、カリキュラムという名の型、そして「波風を立てない」という事なかれ主義によって、見る影もなく変質させられている。
構造的な病巣と「無知の拡大再生産」
なぜ、この水道管は修理されないのか。それは、この錆びた管こそが、既存の支配構造を維持する「安価な装置」として機能しているからだ。
- コストの削減: 思考の型を教える教育は手間がかかるが、知識を詰め込み、特定の価値観を流し込む教育は効率が良い。
- 統治の利便性: 健全な批判精神を持つ有権者が増えることは、現状維持を望む政治勢力にとって最大のリスクである。
- 既得権益の保護: 教育の中立性を叫びながら、その実、自分たちのイデオロギーを「中立」というラベルで偽装して流通させる勢力が、管のいたるところに寄生している。
結果として、情報の真偽を見極める力(リテラシー)を持たないまま社会に放り出された若者たちは、SNSの極端な意見や、扇動的なプロパガンダという名の「さらに汚れた水」を、唯一の救いであるかのように飲み干してしまう。
結論:教育の中立性が担保されない限り、私たちは「有権者」にさえなれない
私たちは今、大きな勘違いをしている。一票を投じる権利があれば、自分たちは自由な民主主義の担い手であると思い込んでいるのだ。しかし、情報の入り口である教育が「錆びた水道管」と化している以上、その選択は汚染された前提に基づいたものに過ぎない。
泥水を飲まされ続けた者に、ワインの芳醇さを理解しろと言うのは酷だ。同様に、情報の偏食とイデオロギーの汚染を強制された国民に、「賢明な判断」を求めるのは構造的な矛盾である。
今、私たちが取り組むべきは、蛇口の先から出る水の「色」を議論することではない。地下に埋もれ、朽ち果てようとしている「教育」という水道管を掘り起こし、その錆を徹底的に削ぎ落とすことだ。
教育の中立性が担保されない限り、健全な有権者は育たない。
それは単なるスローガンではない。この国が国家として自立し、思考停止の底なし沼から抜け出すための、最後にして唯一の処方箋である。私たちは、自分たちの知性がこれ以上汚染されることを拒絶しなければならない。今こそ、私たちの手で、あの清らかな源流の水を、そのままの透明度で引き直すべき時なのだ。
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