「最高のスペックを備えた新製品なのに、なぜか売れない……」「世の中のトレンドは全て網羅したはずなのに、顧客の反応が薄い……」
マーケティングや製品開発に携わる方なら、一度はこのような「的外れな努力」に頭を抱えたことがあるのではないでしょうか。顧客データは山ほどあるのに、肝心のヒットの法則が見えてこない。その原因は、あなたが顧客を「属性(属性)」という記号で捉え、彼らが直面している「状況」を無視しているからかもしれません。
故クレイトン・クリステンセン教授が提唱した「ジョブ理論(Jobs to be Done)」は、こうした漂流するプロジェクトに確信に満ちた北極星を与えるフレームワークです。統計データは顧客の住所は教えてくれますが、顧客の心の行き先までは教えてくれません。
この記事では、ジョブ理論の概念から具体的な実践方法までを徹底的に解説します。読み終える頃には、あなたの目の前の顧客が「本当は何を求めて、なぜその商品を手に取るのか」という因果関係が、まるでドキュメンタリー映画のように鮮明に見えてくるはずです。
イノベーションとは、運に頼るギャンブルではなく、顧客の「用事」を解き明かす科学なのです。
なぜあなたの製品は選ばれないのか?属性分析の罠
「昨今のマーケティングでは、顧客を深く知ることが重要だ」という声は少なくありません。しかし、その「知る」の内容が、単なるデータの収集に留まっているとしたら、それは大きな落とし穴です。多くの企業が、顧客の性別や年齢、年収といった「デモグラフィック(属性)」に頼りすぎた結果、真のニーズを見失っています。
「30代女性」は商品を買う理由にならない
あなたの会社で「ターゲットは都内在住の30代女性、独身、趣味は旅行」といったペルソナを設定していませんか? 確かに、SNSではこうした詳細なペルソナ設計が有効だという意見も根強いですが、ジョブ理論の視点から見れば、これだけでは不十分です。
なぜなら、「30代女性であること」が、今日この瞬間に特定の新聞を買ったり、特定のアプリをダウンロードしたりする直接的な動機(原因)にはならないからです。
例えば、同じ30代女性であっても、「朝の通勤電車で暇を潰したい日常」にいる時と、「大切なプレゼン直前で最新の経済情報を得たい状況」にいる時では、手に取る媒体は全く異なります。属性は相関関係を示唆するだけで、行動の「因果関係」を説明してはくれないのです。属性に基づいた分析は、暗闇の中でターゲットを闇雲に狙い撃つようなもの。運良く当たることはあっても、狙ってヒットを出し続けることはできません。
相関関係と因果関係の違いを理解する
マーケティングの世界では、データが「答え」であると過信されがちです。しかし、統計的に「アイスクリームの売上が上がると水難事故が増える」という相関があっても、アイスが溺水の原因ではありません。真の原因は「気温の上昇」という状況にあります。
ビジネスも同様です。多くの企業が、顧客が「なぜ」その商品を選んだのかという本質を突き止めないまま、ただスペックを強化したり、価格を下げたりといった場当たり的な対応に終始しています。これでは、穴の開いたバケツに水を注ぎ続けるようなもの。どれだけ機能を追加しても、顧客の心という器を満たすことはできません。
専門家の間では、「企業は顧客の声を聞きすぎることで、かえって失敗する」という見方が広がっています。それは、顧客自身も自分の欲しいものを「スペック」という言語で説明できないからです。私たちが注目すべきは、彼らの言葉ではなく、彼らが変えようとしている「状況」そのものなのです。
ジョブ理論の核心「顧客は解決したい用事のために商品を雇う」
「顧客はドリルが欲しいのではない、穴が欲しいのでもない。彼らは『絵を飾った後の素敵な暮らし』を雇いたいのだ。」
この有名な比喩こそが、ジョブ理論の真髄を射抜いています。ジョブ理論では、顧客が商品を購入することを「ハイヤー(雇う)」、使わなくなることを「ファイア(解雇)」と呼びます。
機能的、情緒的、社会的な3つの側面
ジョブ(用事)を正しく理解するためには、それが単なる「機能」の解決ではないことを知る必要があります。一つのジョブには、必ず以下の3つの側面が含まれています。
- 機能的な側面: 「汚れを落としたい」「目的地に早く着きたい」といった実利的なニーズ。
- 情緒的な側面: 「これを使っていると安心する」「リラックスしたい」といった内面的な欲求。
- 社会的な側面: 「周囲からデキる人だと思われたい」「信頼できる人間だと証明したい」という外的な自己呈示。
例えば、結婚指輪を雇う状況を考えてみてください。それは単なる「指を飾る貴金属(機能)」ではありません。社会に対して「私は約束を守り、愛を誓った人間である」というステータスを24時間証明し続けるという、極めて強力な社会的なジョブを遂行しているのです。
「人は属性で動くのではなく、直面している『進歩したいという欲求』で動く」という事実は、BtoBの現場でも同様です。企業の購買担当者が新しいシステムを検討する際、表向きの理由は「効率化」であっても、本音では「このプロジェクトを成功させて、上司に認められたい」という情緒的・社会的なジョブを雇っている場合が少なくないからです。
ミルクセーキの事例から学ぶ「競合」の定義
ジョブ理論を語る上で欠かせないのが、クリステンセン教授が手掛けた「ミルクセーキの調査」です。あるファストフード店が売上向上のために顧客属性を調査し、フレーバーを増やしたり価格を下げたりしましたが、効果はありませんでした。
そこで、教授らは「顧客がどの時間帯に、どんな状況でミルクセーキを雇っているか」を観察しました。すると、朝の通勤時間帯に一人で買う顧客が多いことに気づきました。彼らのジョブは「空腹を満たすこと」ではなく、「退屈で長い通勤ドライブを紛らわし、午前中まで適度にお腹を持たせてくれる『相棒』を雇うこと」だったのです。
この視点に立つと、ミルクセーキの競合はマクドナルドのハンバーガーではありません。「バナナ」や「ドーナツ」、あるいは「ベーグル」になります。しかし、バナナはすぐに食べ終わってしまうし、ドーナツは手が汚れてハンドルが握りにくい。結果として、「片手で持て、ストローで吸うため数十分間も持ち、手が汚れないミルクセーキ」が、その特定の状況下での「最適解」として雇われていたのです。
これは、競合の定義を根本から変えてしまいます。業界では「競合は同業他社ではなく、時間を奪い合う全く別ジャンルのものに変わる」という認識がもはや常識となっています。ネットフリックスの競合がテレビではなく、睡眠やゲームであるのと同じです。
ジョブを特定するための「インタビュー」の実践ステップ
では、どうすれば顧客の隠れたジョブを見つけ出すことができるのでしょうか。そのためには、従来のアンケート調査ではなく、顧客の購入体験を「ドキュメンタリー映画」のように再現するインタビューが必要です。
顧客が「解雇(スイッチ)」したものは何か?
イノベーションの鍵は、新しいものを雇ったとき、代わりに何を「解雇(ファイア)」したかに隠されています。SNSでは「新しいガジェットを買った」という投稿は溢れていますが、本当に重要なのは「その代わりにメルカリで何を売ったのか」「どのアプリを使わなくなったのか」という背後の「スイッチ(切り替え)」の瞬間です。
人が新しい行動を起こすには、4つの力が働きます。
- 現状への不満(Push): 「今のままではダメだ」という押し出す力。
- 新機軸の魅力(Pull): 「これなら解決できそうだ」という引き寄せる力。
- 新しいことへの不安(Anxiety): 「使いこなせるだろうか」という迷い。
- 古い習慣への固執(Habit): 「今まで通りでいい」という慣れ。
インタビューでは、この4つの力が拮抗した瞬間に何が起きたのかを深掘りします。「その製品を買った日の天気はどうでしたか?」「店に行く直前、誰と何を話しましたか?」と問いかけることで、顧客の記憶を特定の状況に引き戻し、因果関係を浮き彫りにしていきます。
状況を深く掘り下げるための質問テクニック
問いかけのポイントは、抽象的な意見を聞くのではなく、具体的なエピソードを「時間軸」で追うことです。
「なぜそれを買ったのですか?」と聞くと、顧客は「安かったから」「デザインが良かったから」と、後付けの合理的な理由を答えてしまいがちです。これを避けるためには、「その商品が届くまでの間に、どんな不便を感じていましたか?」や「他に検討したけど雇わなかった候補はありますか?」という質問が有効です。
それは、犯罪捜査官がアリバイを崩すプロセスに似ているかもしれません。「いつ、どこで、誰といたのか」を執拗に確認することで、顧客自身も気づいていなかった「真の動機」が顔を出します。
「〇〇という声は少なくない」といった一般論ではなく、たった一人の顧客が絞り出す「あの時は本当に困っていたんです」という切実な声こそが、次のヒット商品の種になります。料理における「包丁」を売るのではなく、包丁を使った後の「家族の笑顔」を売るためのヒントは、常に顧客の過去の苦労の中に眠っています。
今日から使える!ジョブ理論をビジネスに活かすアクション
ジョブ理論は理解して終わりではありません。重要なのは、それを自社の製品やサービスにどう落とし込むかです。
既存製品の「隠れたジョブ」を再定義する
まずは、今すでにあなたの製品を愛用してくれている顧客に対し、重点的にヒアリングを行ってください。短期的には、購入直後のユーザーにコンタクトを取り、どんな「不自由な状況」から脱却しようとしたのかを言語化します。
例えば、ある高級ベッドメーカーがジョブを分析した結果、顧客が本当に解決したいのは「眠ること」ではなく、「明日、疲れ知らずで子供と遊べる体力を手に入れること」だと気づいたとします。これに気づけば、宣伝文句は「最高級のスプリング」から「週末を最高のパパで過ごすために」へと激変するはずです。
このように、製品が片付けている「用事」を再定義するだけで、既存の製品のままターゲットや訴求を変えるだけで売上が劇的に向上することがあります。つまり、特定のジョブに特化して「ブランド・アイデンティティ」を再構築するのです。
顧客の「進歩」に焦点を当てたコピーライティング
ジョブを特定できたら、その「解決」と「進化」をそのままコピーに変換します。
- Before: 「成分配合量No.1のサプリメント」
- After: 「夕方の会議でも、朝一番のような集中力を保ちたいあなたへ」
後者は、顧客が「午後の集中力低下」という具体的でネガティブな状況を打破し、「デキる自分」という理想へ進歩することを約束しています。比喩で言うなら、顧客という主人公が、商品という「魔法の杖」を借りて、困難を乗り散らして理想の自分へ変貌を遂げる「ヒーローズジャーニー(英雄の旅)」を演出するのです。
「〜という見方が広がっている」といった業界のトレンドを追うよりも、一人の顧客の「進歩」を完璧にサポートする。その積み重ねが、競争のない独壇場を作り上げます。
逆張り・注意喚起:ジョブ理論の「死角」を知る
とはいえ、ジョブ理論を万能の特効薬として盲信することには注意が必要です。
ただし、ジョブ理論に固執しすぎると、顧客自身も気づいていない「ジョブを超えた衝動的・破壊的なイノベーション」を見逃す可能性があるという反論もあります。ジョブ理論は「今ある不満」を解決する力には長けていますが、iPhoneのように全く新しいライフスタイルそのものを創り出すような、予期せぬ「遊び」や「アート」の領域を説明しきれない側面があるからです。
また、低価格自体が究極のジョブとなっている超コモディティ市場においては、状況を深く分析するコストをかけるよりも、冷徹にコストリーダーシップを追求する方が生存率が高い場合もあります。
だからこそ、ジョブ理論は「これさえやれば正解が出る」というマニュアルではなく、顧客と向き合うための「誠実な規律」として活用すべきです。読者の皆様には、理論を鵜呑みにするのではなく、自分の市場において「どこまでがジョブで解決でき、どこからが直感の領域か」を冷静に判断する姿勢を持っていただきたいと思います。
まとめ
ジョブ理論の本質を、改めて3つのポイントで振り返りましょう。
- 顧客は属性(デモグラフィック)ではなく、特定の「状況」によって行動する。
- 商品は「購入される」のではなく、ある用事を片付けるために「雇われる」ものである。
- イノベーションの目的は、顧客を「現在の不満な自分」から「理想の進歩した自分」へと導くことにある。
今日からできる最小のアクションとして、まずは直近で商品を買ってくれた顧客一人に連絡を取り、「それを買う直前、何に困っていましたか?」とチャットや対面で聞いてみてください。そのたった一つの問いが、データという霧に包まれた市場を照らす一筋の光になるはずです。
人類の歴史は、同じ「ジョブ」をより効率的に、より心地よく片付けるための「雇い先」を探し続けるプロセスです。あなたが顧客の「名脇役」として、彼らの人生の進歩を支えるパートナーになれたとき、製品は選ばれるのではなく、「あなた(の製品)でなければならない」という必然の存在へと変わります。
統計データは、顧客の住所は教えてくれるが、顧客の心の行き先までは教えてくれない。
さあ、データの裏側に隠された、顧客の「本当の物語」を探しに行きましょう。
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